白雪姫

 

 

プロローグ

 

もともと、望んだ結婚ではありませんでした。というより、そもそも「結婚」ということそれ自体と無縁の、そこから自由な人生を送りたかったのです。「結婚」によって身体は(けが)れ、魂までも汚れてしまうから。でも結局、無理やり結婚させられてしまいました。今や王妃となった私は、この汚れを少しでも浄化するべく、神への祈りを毎日欠かすことはできません。

それなのに、今度は子供を産むようにですって? とんでもないこと! そんなことをしてしまったら、もう今度こそ取り返しがつかないではありませんか。悲しみと苦悩を抱えながら、一心に祈る毎日です・・・。

 

 

一瞬、目の前が漂白され、意識が遠のき、突然視界が揺れる。この光景は、今までにも幾度か経験がありました。めくるめく法悦の瞬間(とき)・・・。

「ああ、イエスさま・・・。」

目の前に、聖画像そのままのイエス・キリストが姿を現しました。過去、何度も幻視したイエスさまは、黒檀の椅子に座って、暖かい目でこちらを見つめておられます。

「イエスさま、私は望まぬ結婚を強いられ、今また子供を産めと迫られております。私は、どうしたら良いのでしょうか。私の進むべき道をお示し下さい。」

――案ずることはない。汝の産む子は、王との間に生まれるのではなく、私と汝との間に生まれてくるのだ。その子には、神から最大限の祝福が与えられるであろう。

幻影のイエスさまのお言葉は、肉声ではなく、頭の中に直接呼びかけてくるかのように響きます。それはとても心地よい、法悦の瞬間なのです。

突然、イエスさまの腕から血が流れ出てきました。私は、まるで当然のように自らの口でその血を受け、飲み込みました。雪の上に、数滴の血が落ちました。気づくと、あたり一面が真っ白な雪原になっています。

――今、生まれてくる子に、神から3つの祝福が与えられた。キリストの血という聖性、白い雪という汚れ無さ、そして黒檀の・・・

私の意識は再び遠のき、イエスさまのお言葉の続きを聞くことはできなかったのでございます・・・。

 

 


 

1.雪のように白い姫君

 

クレサージュ王国に、王女が誕生した。国王ギョーム1世と王妃の間に生まれた娘は、ブランシュと名づけられた。ブランシュ姫は、雪のように白い肌と、血のように赤い唇、そして黒檀のように見事な黒髪を持っていた。人々は彼女に「白雪姫」とあだ名した。

「何はともあれ、ほっとしたわ。」

国中が祝賀ムードに沸き立つ中、しみじみと漏らしたのは王妃の侍女たちだった。長い間子が生まれなかった王妃が、もし失脚するようなことでもあれば、彼女らにとっても死活問題だった。ひたすら信仰に生きるタイプの王妃がそのことに無頓着なことも、一層侍女たちの危機感を煽っていたのだ。

「これで、やっと枕を高くして眠れるわね。」

「知ってる? 王様は王妃様に会うたびに『お前は世界で一番美しい』とか言ってるんですって!」

「あとは、姫様がすくすくと成長してくれれば、私たちも安泰ね。」

侍女たちは、ようやく穏やかな心地で談笑する余裕を取り戻したようだった。

 

 

やがて、ブランシュ姫は驚くほど美しい少女に成長した。ところが、侍女たちは、またしても危機感を刺激されることになった。

「王様が姫様に『お前が世界で一番美しい』と言ってるって、本当?」

「みたいよ。ねえ、それって、王様の気持ちが王妃様から離れつつあるってこと?」

「それどころか、父娘で近親相姦じゃないかって噂まであるわよ。」

「あー、そういうモラル薄そうだもんね、あの王様。」

侍女たちのひそひそ話は、ピリピリとした緊張感を孕んでいる。王と王妃の間が冷えているかも知れないこと、王とブランシュ姫に近親相姦の噂があること、いずれも彼女らの立場を危うくする要素だったからだ。噂によってブランシュ姫の評判が悪くなれば、現在第一位の王位継承権も危うくなるかも知れない。

侍女たちは、王妃にこの危機的状況を訴えた。特に、近親相姦の噂については、かなり誇張して王妃の耳に吹き込んだ。

「まさか、あの真面目な王が、そんなことをなさるわけがないじゃない。」

「王様は、お若い頃にも姉君様と近親相姦の噂があったそうです。であれば、そちら方面に対する意識が弱い可能性もあります。」

「それに、そのような噂があるということ自体、大問題ですわ。」

畳み掛けるように迫る侍女たちに、王妃は困惑した。

「とにかく、そのような根も葉もない噂を話すのは、お控えなさい。」

強引に話を打ち切ったものの、侍女たちは王妃の心に疑心暗鬼の種を植え付けることに成功した。その種はやがて芽吹き、次第にどす黒い蔓を彼女の内面に這わせるようになる。

 

 

ある日、王はブランシュ姫と2人で森に出かけた。馬車を、見えない場所に停めて、2人だけであずまやへ歩いていった。御者などにも見られたくない用事ということなのだろう。

あずまやの中には、3人の少女がいた。3人は王の姿を見ると慌てて立ち上がり、丁寧なお辞儀をした。王は気さくに3人に近づくと、3人をブランシュ姫に紹介した。木こりの娘でセミロングのエレーヌ、庭師の娘でショートカットのジゼル、門番の娘で天然パーマのアン。驚いたことに、3人の容姿はブランシュ姫にそっくりだった。

「ブランシュ、この3人は、お前のお姉さんたちだ。母親は違うがな。」

王の言葉に、ブランシュ姫ばかりかエレーヌたち3人までもが驚きの声を上げた。3人は幼馴染だったが、自分たちが姉妹だったことすら知らなかったようだ。

「そなたたちに今まで黙ってたのは悪かったが、王妃の立場にも配慮して、身分を隠してそれぞれの家に預けたのだ。」

「そうだったんですか・・・。」

必死で冷静さを保とうという風情で、エレーヌは応じた。その横で、ブランシュ姫はアンとキャッキャッとはしゃぐようにお喋りをしている。

「アンはもう馴染んじゃってるみたいね。」

「だって、こんなに可愛い妹ができたんだもん。楽しくってしょうがないじゃない。あ、もちろんエレーヌとジゼルがお姉ちゃんだったことも、とっても嬉しいわよ。」

唖然とするエレーヌを横目に見て、ジゼルがくすりと笑った。

 

 

「でも私は、いまいち納得できないんだけど。」

王とブランシュ姫が去ると、ジゼルがぼそりと言った。アンはショックを受けたようだったが、エレーヌはたいして驚いたようには見えなかった。

「結局、王様は私たちを王室に迎えるとは言わなかったでしょ。別に今の生活に不満なんてないけど、姉妹だっていうなら、その中であのお姫様が王女待遇っていうのは、なんかおかしくない?」

「え、そ、そんな・・・」

アンはすっかりおろおろとうろたえてしまっている。たった今仲良くなった妹に対して、大好きな友達(まだ姉という実感はあまりない)がキツイ批判をしているのを聞くのは、彼女ならずとも気分の良いものではない。

「だいたいあの()も、本来なら第一王女のはずのエレーヌの前で、自分は特別で、それが当然だとでもいうようなあの態度も・・・」

「無神経だと?」

言おうとしたことをエレーヌに引き取られて、やや虚を突かれた感じでジゼルが押し黙ると、エレーヌはふっと微笑を浮かべた。

「あのね、仮に王室に迎えられたとしても、王妃様の娘であるブランシュ姫と私たちでは、厳然と身分が違うの。王様の娘ではあっても、私たちは王女ではないし、末娘であってもブランシュ姫は王位継承権第一位であることに変わりはないのよ。」

エレーヌの言うとおり、同じ王の子供であっても、王妃の産んだ「王子」「王女」とその他の「庶子」は厳密に区別された。王位の継承は基本的には王子や王女によってなされたし、庶子となると結婚の条件面でもワンランク落ちた。

「それに、一国の王女っていうのは、相当なプレッシャーがあるんじゃないの。あの娘は生まれたときから、この国の将来を背負わされてるのよ。この上、あまり厳しいことを言っては、可哀想よ。」

もしも自分がそのような立場に立たされたとしたら・・・。ジゼルとアンはそんなことを考え、知らず知らず表情が引き締まる。自分たちよりも年少のブランシュ姫の、精一杯肩肘を張ったような立ち居振る舞いも、そう思えばむしろ哀れにも見える。

「ブランシュ姫を、王女としてではなく1人の女の子として、心の支えになってあげられるのって、私たちだけだと思わない? 無条件に彼女を応援してあげること、どんな時でも彼女の味方になってあげること、それが姉であることの意味なんじゃないかしら。」

「そうよね! これからも、あの娘と仲良くしていけばいいのよね!」

急に身を乗り出してそう大声を出すアンに、エレーヌとジゼルは一瞬あっけに取られたが、アンが「あれ?」とキョロキョロ2人の顔を見回すと、2人はたまらずに吹き出した。

 

 


 

2.噂

 

「今、そこの廊下で王様が姫様と挨拶されていたんですけど、姫様を見る時の王様の目つきが・・・」

「昨日、姫様が王様の寝室から出ていらっしゃいましたわ。お部屋の中で王様と2人きりで、いったい何を・・・」

侍女たちがしばしば耳に入れるこの種の噂話に、王妃のストレスは増す一方である。その上彼女たちはそれらの噂を広めることにも熱心で、いつしか王宮中がその話題でもちきりになってしまった。

王妃は普段は侍女たちに不快な話を聞かされ、1人になるとそれらの話が精神の基底部でどろどろと発酵し、どす黒いなにものかとなってわだかまる。この得体の知れないものの存在自体が重大な罪に感じられ、王妃を苦しめていた。

 

 

「王妃様、お呼びでしょうか。」

狩人はそう言って、床に(ひざまず)いた。この時代、狩人は被差別身分であったが、王妃は狩人に対しても他と分け隔てなく接した。そのため狩人は王妃を敬慕し、王妃のためならば喜んで命を賭ける覚悟を持っていた。

「お前に頼みがあります。」

「何なりと!」

「王とブランシュ姫の間に良からぬ噂が立っているのは知ってるわね。お前には、常に姫に付き従って、王と2人きりにならないよう、気をつけて欲しいの。頼まれてくれるわね。」

狩人は(うやうや)しく頭を下げる。

「仰せのままに。私の身も心も王妃様のものであります。何事も王妃様の御心のままに。」

その日から、狩人はブランシュ姫に付き従うようになった。狩人は姫の前でも、王妃への敬慕の念をたびたび口にしたため、ブランシュ姫も狩人に親近感が湧き、2人は急速に仲良くなった。

「あの男、目障りね。」

ブランシュ姫と楽しげに話す狩人を横目に見ながらそう呟いたのは、ジゼルである。その露骨な言い回しに眉をひそめつつも、エレーヌは

「・・・そうね。」

と同意した。狩人がいつもブランシュ姫に張り付いているため、彼女たちは姫に話しかけづらくなってしまったのだ。

「じゃあさ・・・。」

声をひそめて言うアンの口元に、エレーヌとジゼルは耳を寄せた。

やがて、狩人がブランシュ姫と愛人関係にあるという噂が、王宮中に広まった。

 

 

暗い室内で、狩人は冷たい石の床に座り込んでいた。両手は広げて目の前の床についた状態で固定されている。見上げる視線の先には、高い背もたれの椅子に、黒いドレスを(まと)った王妃が足を組んで座り、鞭を手にこちらを見下ろしている。

「私はお前に、姫を守るようには頼んだけれど、そこまで仲良くなれとは言わなかったわよねえ・・・。」

王妃の低い声が、石の壁にわずかに反響する。狩人の、恐怖に青ざめた顔を冷ややかに眺めつつ、侍女に命じる。

「とりあえず、1本打ちなさい。」

侍女が針を持って狩人の前に現れた。針とはいっても、およそ20cmほどはあろうか。通常の針仕事にはおよそ使えそうにみえない。狩人の表情が引きつった。これから何が起こるのか、本能的に察したらしい。

別の侍女が、狩人の左手の人差し指を床に押さえつけた。狩人は抵抗を試みたが、指1本では抗いようもない。長い針が、その指先に当てられる。侍女は無表情に、針を指の肉と爪の間に、深々と刺し入れた。

鮮血が噴き出し、狩人の悲鳴が室内に充満した。

「もう何本か、刺しておやりなさい。」

王妃の暗い怒りは、まだおさまらない。長い針が指にゆっくりと吸い込まれる都度、高く、あるいは低く、次第に掠れながら間断なく悲鳴は続く。床には、見る間に赤黒い湖が広がってゆく。それを王妃は、手にした鞭を弄びながら興味なさげに鑑賞していた。

5本目を刺したところで狩人が気絶した。侍女は水をかけて目を覚まさせる。ようやく王妃が口を開いた。

「ブランシュ姫を森へ連れ出して殺しなさい。ああそう、間違いなく殺したという証拠に、あの娘の肝臓を持っておいで。それで許してあげましょう。寛大な処置に感謝しなさい。」

狩人はもはや息も絶え絶えで声も出ず、わずかに首を上下に動かしただけであった。

 

 

「森で王様がお待ちですよ。」

狩人は、そうブランシュ姫に声をかけた。もちろん姫を森へ連れ出すための嘘である。2人は1頭の馬に乗って、森の奥へ行った。

「俺がここで、この姫君を殺したら、王様にどのような報復を受けるか・・・。でもこのまま帰ったら、俺は王妃様に殺される。いったいどうしたら・・・。」

道々、狩人はそう悩み続けていた。

やがて、森の奥のやや開けた空間に出ると、狩人は馬からブランシュ姫を下ろし、意を決したように言った。

「姫君、王妃様は今大変お怒りになっています。王妃様のお怒りが鎮まるまで、姫君はしばらくここでお待ち下さい。私は戻って、王様に姫君を保護するよう、お願いして参ります。」

言い終わるや否や、狩人はブランシュ姫を置き去りにして、馬を駆って引き返してしまった。ブランシュ姫は呆然と見送るしかなかった。

帰途、狩人は鹿を射てその肝臓を取り出し、ブランシュ姫の肝臓だと王妃に報告した。

 

 

「エレーヌ、ブランシュ姫が狩人に、森へ連れて行かれたわ。」

「森へ? それで、姫は無事なの、ジゼル?」

「わからない。狩人は1人で戻ってきたようだけど。」

「・・・!」

エレーヌは(きびす)を返すと、木こり仲間の顔役のところへ行き、ブランシュ姫が森の中で行方不明だと告げた。ところが、顔役は悠然としていた。

「実は、さっき森の奥の小人(こびと)連中から連絡があってな。森でブランシュ姫を保護したそうだ。そのまま匿ってくれるよう、頼んでおいたぜ。」

その言葉を聞いて、エレーヌはややほっとした。森をよく知る小人たちが保護してくれたのなら、ブランシュ姫の安全は確保されたとみてよいだろう。エレーヌは深々と頭を下げて、顔役の好意に謝した。

「エレーヌも、そんな他人の世話ばっかりしてないで、イイ人でも見つけたらどうだい。せっかくの美人が、もったいないぜ。」

「ありがとうございます。でも、仰るような美人なら、結婚くらいいつでもできるでしょうから、ご心配なく。」

エレーヌはにっこりと笑って、辞去した。

 


 

3.小人の家

 

小人たちの本業は鉱山労働だった。彼らの家は平屋造りの丸太小屋といった風情だったが、床が高く、鎧戸(よろいど)や暖炉などの保温・暖房設備もしっかりとしていて、ヨーロッパ特有の厳しい冬も充分に乗り切れる構造になっている。内部は、簡単な炊事場に隣接した食堂の他には、干草や麦わらが山積みになっている広めの部屋が1つだけ。小人たちは干草・麦わらの山をたいらにならして、その上にシーツ代わりの大きな布を敷いて雑魚寝していた。まさかブランシュ姫と雑魚寝というわけにもいかないため、この広めの部屋の中央に仕切りを作って、その一方を姫君の寝室とした。小人たちは、半分になった部屋でぎゅうぎゅう詰めで寝ることになった。

彼らが仕事に出かける時も、1人ずつ交代で姫の護衛に残ることになった。

姫が転がり込んでくる前の小人たちも、家事労働のようなことはやっていたが、仕事で疲れて帰宅した後、そこらへんの野菜や肉を煮込んだだけの粗雑な食事を作る程度で、姫君の世話などできるはずがなかった。ブランシュ姫にしても、王妃や家庭教師に厳しく躾けられたとはいえ、それはあくまで王家の姫君として恥ずかしくない教養や身だしなみとしてのものであり、家事労働一般ではなかった。小人たちもブランシュ姫も、何をしたら良いのかわからず、呆然としているような状態だった。

困り果てた小人たちは、エレーヌに助けを求めた。こうして、エレーヌはジゼル、アンと交代で小人たちの家を訪ね、妹の世話をしつつ、少しずつ身の回りのことをブランシュ姫に教えていった。

 

 

「いい匂い・・・。」

ブランシュ姫の呟きを聞いて、エレーヌが振り返った。彼女は小人たちの家の炊事場で豆と鶏肉のスープを作っていた。

中世ヨーロッパ人は、現代人に比べるとかなりの辛党だった。晩秋の頃に絞めた家畜の肉を春先まで食べざるを得ない事情もあり、スパイス類を多用しなければものを食べることもできなかったことから、そうなったのだろう。とはいえ、コショウをはじめとするスパイス類をすべてイスラム圏経由で入手していたこの時代、高価なスパイスを気軽に使用できたのは王侯貴族か富裕な商人くらいである。庶民はにんにくをふんだんに使った。

また、当時乳製品は卑しい食べ物とされ、王侯貴族は乳製品を口にしなかったが、アルプス以北の地域では、バターは必需品である。エレーヌの作るスープにもバターとにんにくがたっぷりと使われており、その芳香はブランシュ姫に新鮮な驚きを与えた。

「この料理は私の母・・・今の家の母、養母だったみたいだけど、あの人が教えてくれたのよ。とてもおいしいし、これを食べると、夏の暑さにも冬の寒さにも負けずに乗り切れるわ。とにかく今は、しっかりと食べることが肝心よ。」

エレーヌはいつものように粗末な衣服に身を包んでいたが、ブランシュ姫は姉に抱きつきたいという衝動に駆られた。しかし、幼少時より厳しい躾を受けてきた姫は、はしたない行動をとってはいけないと思い、躊躇(ちゅうちょ)した。迷った挙句、ブランシュ姫はエレーヌのエプロンをつまんだ。エプロンが少し引っ張られるのを感じたエレーヌが振り向き、そこに顔を真っ赤にして、エプロンの端を握り締める姫の姿にちょっと驚いたが、すぐに柔らかく微笑むと、妹の頭を優しく撫でてあげたのだった。

 

 

「次、これ運んで。」

ジゼルに指示された重い洗濯物を、ブランシュ姫が不慣れな手つきで運ぶ。実際の洗濯は重労働なので、さすがに姫君にはさせられず、衣類の運搬や干す作業の手伝いをする程度しかできなかったが。

大きなシーツを2人がかりで干して、一通りの作業を終えると、ブランシュ姫は貧血を起こして、その場にへたり込んでしまった。炎天下での慣れない作業が祟ったのだろう。ジゼルは姫を助け起こし、日陰に連れて行ったが、そのまま無言でどこかへ姿を消してしまった。

「・・・嫌われちゃった?」

ぽつりと呟くと、ブランシュ姫の目から涙が溢れてきた。今日のジゼルは終始ぶっきらぼうだった。そういえば、初対面の時も、ジゼルだけは自分に話しかけてこなかった。今日のことで呆れられて、ますます嫌われてしまったかも知れない。そう思うと、悲しくなってきたのだ。

「ほら、飲んで。」

見上げると、ジゼルがミルクの入ったカップを差し出していた。

「・・・ありがとう・・・。」

「・・・。」

渡されたミルクを一口飲むと、ブランシュ姫は驚いて顔を上げた。ミルクに高級な蜂蜜が溶かしてあったのだ。ジゼルはあちらを向いて頭を掻いている。

ブランシュ姫は、このクールで、不器用で、そして優しい姉を、大好きになった。

 

 

「ほらほら、これなんかブランシュに似合うよー!」

「あ、可愛い。ねえねえ、これの作り方教えて。」

アンとブランシュ姫は花畑で花冠を作っていた。もちろん、アンは遊びに来たわけではなく、2人でわいわい言いながら掃除や料理を終えた後でのことだ。

王宮では、ブランシュ姫の周りは大人ばかりで、アンのように一緒にはしゃぐことのできる友達は一人もいなかったから、アンが来た時には、ブランシュ姫は心底から楽しそうだった。

「ブランシュって、髪きれいねー。そうだ、ちょっと編み込んでみてもいい?」

「え、いいけど・・・?」

ブランシュ姫の後ろに回ったアンが手早く髪をいじると、2人で水辺に行き、水面に映してみた。

「ほら、どう?」

「可愛い・・・。ねえ、これってどうやるの?」

「教えてあげるー。あのね・・・」

 

 

ブランシュ姫にとって、小人たちや3人の姉との暮らしは、王宮にいたときのような快適さはなかったが、常に新鮮な驚きと喜びに満ちていた。当初は、母親の怒りを買って森に置き去りにされたことに落ち込んでいたが、周囲の人たちの心遣いに感謝し、前向きな気持ちで新しい生活に馴染もうとしていた。

 


 

4.悲劇の始まり

 

ブランシュ姫が去った王宮は、すっかり寂しくなってしまっていた。なにしろ、宮廷の華だったブランシュ姫が行方不明で、それに代わって宮廷を盛り上げるべき王妃までもが元気を失い、すっかりやつれてしまっていたからだ。

王妃は深い罪悪感に苛まれていた。自分の腹を痛めて産んだ娘、しかも愛するイエスとの間の(と思い込んでいる)子を、どうして殺そうなどと思ったのか。狩人が持ち帰った「ブランシュ姫の肝臓」を見た瞬間、そのような思いが一気に湧き出して、その場に昏倒してしまった。死んでしまった姫のためにせめてしてやれることは、その「肝臓」を食べて、自分と一体化させることだけだった。

ブランシュ姫を殺そうと思った当時のことを、王妃ははっきりと記憶していない。今思うと、頭の一部に(かすみ)がかかっていたようにも思える。頭の中で自分に囁きかけてくる何者かの声に洗脳されてしまったかのような、曖昧で不気味な雰囲気しか、覚えてはいなかった。

狩人が持ち帰った肝臓を食べて以来、王妃は一日中礼拝堂に籠もり、一心に祈り続ける毎日だった。

 

 

ある日、ひたすら祈り続ける王妃の目の前に、神々しい光に包まれたイエスの幻影が姿を現した。

――王妃よ、歎くことはない。ブランシュ姫は、私たちの娘は生きている。

「本当ですか?」

王妃は思わず、(すが)るような表情で反問する。

――そうだ。ブランシュ姫は、森の小人たちの家に匿われている。

良かった。王妃は心から安堵した。姫が生きていたとしても、娘を殺そうとした罪は消えないし、自分は地獄に堕ちるかも知れないが、とにかくブランシュ姫は生きていた。それだけで、王妃は満足だった。それが親というものである。

――会いに行ってやるがよい・・・。

そう、謝らなくては。王妃は思い直した。娘を危険な目に遭わせてしまったのだ。自ら森に出向いて、謝らなくてはならなかった・・・。

 

 

王妃は、小人たちの家に到着すると、戸口から中の様子を窺った。罪悪感もあり、さすがにいきなり乗り込む気にはなれなかった。

その日、小人たちは珍しく全員外出しており、家の中にはブランシュ姫が一人きりだった。ブランシュ姫は、退屈しのぎに部屋の模様替えをしていた。これは彼女が最近覚えた楽しみだった。もとより、王宮のように調度や装飾品が豊富にあるわけではないが、その中でいかに工夫するかが楽しいのだ。

ブランシュ姫の楽しげな様子を目にした王妃は、感極まって思わず声をかけた。

「姫、ブランシュ姫。」

「お母さま!?」

ブランシュ姫は振り返ると仰天し、立ち尽くした。王妃は涙ながらに歩み寄り、一人娘をその腕に抱きしめた。しかしブランシュ姫は、王妃の感激には感応せず、戸惑うばかりだった。ブランシュ姫に対する母親の溺愛ぶりは、以前から少々鬱陶しく感じられていた。それなのに、突然狩人を使って森に置き去りにするという、掌を返したような仕打ちをし、そして今またこうして自分を抱きしめる。この母親の真意が、ブランシュ姫にはわからない。よしんば、本当に自分を愛しているのだとしても、いつまた自分を追い出そうとするかわからない。ブランシュ姫の心には、母親に対する不信感と警戒心が根を下ろしていた。

王妃は、ブランシュ姫へのお土産として、シルクの胸ひもを取り出して見せた。胸ひもは、女性の胸を豊かに見せるために、衣服の上からアンダーバストのあたりを縛る紐である。当時、絹糸はまだヨーロッパでは生産できず、遠く中国からシルクロードを経て地中海に入り、ヴェネチアやミラノで織物に加工されて、そこからヨーロッパ中に流通していた。そのため、アルプス以北では、シルクの胸ひもは大変な貴重品であり、女性たちの憧れの的だった。

王妃は自ら愛娘の体に胸ひもを結んであげた。

「お前も、すっかり娘らしい体つきになってきたわねえ。」

とても嬉しそうに、しみじみと王妃は言った。両手を肩まで上げ、母親に背中を預けながら、さすがにブランシュ姫もまんざらでもない様子だった。ブランシュ姫も、おしゃれ好きな、年頃の女の子なのだ。しかし、まだ母親に対しては、素直な態度を示すことはできない。

「痛い。お母さま、ちょっときついですわ。」

「あらそう、ごめんなさいね。」

「お母さまは、いい歳をして、細やかさというものが足りないんですわ。そんなだから、お父さまにも飽きられてしまうんですのよ。」

その瞬間、王妃の顔から表情が消えたのに、後ろを向いているブランシュ姫は気づかなかった。王妃はブランシュ姫の胴体から胸ひもを解くと、素早くそれを姫の首に巻きつけた。

「――!」

言葉にならない叫びを上げて、ブランシュ姫はその場に硬直した。王妃は渾身の力を込めて、娘の首を絞め上げる。

もともと繊細で情緒不安定気味の王妃は、ここのところのストレスで感情の振幅が極端になっていた。ちょっとしたことで感情のベクトルが逆転してしまったりする危険が常につきまとっていたのだ。この時、まさに王妃の感情は、ブランシュ姫の不用意な言葉によって極端に振れてしまったのだ。

「お母・・・さ・・・」

姫の口からかすかな言葉の断片が漏れた直後、その身体は糸の切れた(あやつ)り人形のように崩れ落ちた。

 


 

5.続く惨劇

 

ブランシュ姫の死体を発見した小人たちからエレーヌたちのもとへ、急報が届いた。3人は、取るものもとりあえず小人たちの家へ急行した。

「ブランシュ・・・。」

「ブランシュ、ブランシュ、ねえ、目を開けて。目を開けてよ!」

床に横たわる死体を見た瞬間、エレーヌは放心したようにその場にくずおれた。アンは死体に取りすがって泣きじゃくる。

「エレーヌ、アン。復讐するわよ。」

名指しされた2人が振り向くと、彼女らの後ろでジゼルが、凄まじい形相で立ち尽くしていた。

「でも・・・、誰に?」

エレーヌが、常にない弱々しい声で訊いた。この時点で、ブランシュ姫の殺害犯が誰かはわかっていない。ブランシュ姫は宮廷では誰にでも好かれており、王位継承のライバルもおらず、明確な動機を持つ者が見当たらないのだ。あえていえば、一度姫の殺害を企てた王妃が怪しいが、ブランシュ姫がここに匿われていることを王妃は知らなかったはずではないか。

「私がブランシュに扮して、この家に住み込む。そうすれば、ブランシュを殺し損ねたと思った犯人をおびき出せるわ。」

「何を言ってるの。馬鹿なことはやめて!」

ジゼルの危険すぎる申し出に、エレーヌは慌てて反論した。もうこれ以上、姉妹を危険に晒すわけにはいかない。

「私は、生前のあの()に優しくしてあげることが、ほとんどできなかった。せめて今からでも、私にできることをしてあげたいの。もう二度と後悔なんてしたくないから・・・。」

一語一語、噛み締めるように言ったジゼルの頬を、一筋の涙が伝った。これほど激しい感情を露わにするジゼルを、2人は見たことがなかった。もちろん、ジゼルの涙なんて、初めて見る。2人と比べ、ジゼルは感情を表に出すことが少なかったが、その裏にどれほど熱く、激しく、豊かな感情が動いていたのだろうか。

エレーヌは何も言えなくなり、嗚咽をこらえるジゼルを優しく抱き寄せた。

ジゼルが小人たちの家に住み込むことは、当の小人たち以外には話さなかった。犯人は一度、何の情報もない中でブランシュ姫を殺害しており、今回も自力でその存在を嗅ぎつけてくるのを待つことにしたのである。

 

 

一方で、王妃の苦悩ぶりは見るも無残だった。自分の愛娘をその手で殺してしまったのだ。

ブランシュ姫の首に紐が食い込んでいく光景は、目に焼きついている。首を絞める感触も、紐を通して両手に、まだ生々しく残っている。その上、ブランシュ姫が最後に母親を、自分を呼んだことが、王妃の苦悩を一層深くした。娘は自分に対して、どのような想いを抱いて死んでいったのだろうか。それを思うと、息もできないほどに胸が締め付けられる。

ブランシュ姫は、何だかんだいっても、最後まで王妃を信じていた。一度は自分を殺そうとした母親に、自らの背中を預けたのだ。

「私は・・・、私は、一瞬の感情に身を任せて、あの娘の信頼を裏切ってしまった・・・。」

自分は決して、許されることはないだろう、と王妃は思う。もはや自分が救われるためではなく、娘の冥福のために、日々祈り続けた。

 

 

――王妃よ、ブランシュ姫はまだ生きておるぞ!

雷鳴のように、イエスの声が鳴り響いた。気がつくと、王妃は、(まばゆ)い光に包まれたイエスに向かって跪いていた。

――姫は今度こそ、お前への恨みを忘れまい。放っておくことはできぬぞ。

王妃は慄然とした。今回は、何といっても、王妃自らの手でブランシュ姫を(くび)り殺してしまったのだ。その姫が生きていたとなれば、当然自分への報復を企てるはずだった。イエスはこの時、それに対して機先を制してブランシュ姫を処分する必要があると示唆していた。先ほどまで罪悪感に充たされた心境にあった王妃は、もしもブランシュ姫が目の前に現れたとしたら、復讐の刃を感受したかも知れなかったが、イエスの言葉による影響力は王妃にとって絶対であった。

ほどなく、王妃は自室のベッドを大量の寝汗で濡らした自分自身を発見する。どうやら夢だったらしい。しかし、夢の中であったとしても、イエスさまの仰る言葉は、彼女にとってはすべて真実である。

信仰心の篤い貴婦人の顔は、次第に陰惨な陰謀家のそれに変化しつつあった。

 

 

王城内の薄暗い一室で、王妃は椅子に足を組んで座り、天井近くまで吊り上げられているものを、冷たい視線で見上げていた。

天井には滑車が固定されており、そこには頑丈そうなロープが渡してあって、ロープの一方の端は床で固定されている。そしてもう一方の端には、狩人が後ろ手に両手首を縛られて、天上ギリギリまで高く吊り上げられ、その足には(おもり)がつけられていた。狩人の背中は、下から見ると天井にぴったりと貼り付いているようにも見える。その顔にも体にも、既に散々鞭打たれた痕が残っている。服は破れ飛んでしまっており、わずかに腰周りと襟元に布切れが残っているのみである。

王妃は無言のまま、手にした鞭で狩人を指し示し、そのまま空中に鞭で垂直線を描くように下ろした。それを見て、侍女が固定されていたロープを解く。すると狩人の身体は、床に向かって急降下した。床に激突する、と思われたとき、その寸前でロープが伸びきり、狩人の身体は急停止した。

「――!」

全身に衝撃が走る。体中の関節という関節がバラバラになりそうな痛み。衝撃で、狩人は全身の関節を脱臼していた。声は出なかった。それどころか、呼吸すらしばらく不可能になるほどの激痛だった。

「今度こそ、あの()を殺しておいで。今度情けをかけたりしたら・・・、わかってるでしょうね。」

王妃は熱のない視線で狩人を見やり、不気味な静かさで言い捨てた。

 

 

その日、小人たちはなぜかまた全員外出しており、ジゼルは一人で留守番をしていた。そこへ、醜い人相で片足を引き摺った物売りが訪ねてきた。物売りは身の回りの小物を売っていて、ジゼルには(くし)を勧めた。最初、ジゼルは物売りを追い返そうとしたが、話しているうちにこの物売りが狩人であることに気づいた。王妃の腹心といってもよい人物がここに現れたということは、王妃はここにブランシュ姫がいたことを突き止めていたということだろうか。このことは、ブランシュ姫殺害の主犯が王妃であることを指しているのだろうか。

それにしても、王妃はどうやって、ブランシュ姫がここにいるという情報を掴んだのだろうか。その考えはジゼルの心胆を寒からしめた。とにかく情報を得なくてはならない。

「わかりました。色々と見せてくださるかしら?」

覚悟を決め、ジゼルは物売りに扮した狩人を家の中に招じ入れた。

 

 

はじめの内、ジゼルが物売りを狩人と判別できなかったのも無理はない。度重なる拷問で、狩人の容貌はすっかり変わってしまっていたのだ。一方の狩人は、小人の家にいる少女はブランシュ姫であると信じて疑わなかった。ブランシュ姫にそっくりのジゼルが、姫の髪型に似せた(かつら)を被っていたからだ。その上、この時狩人は極度に緊張していたために、冷静な時であればわかったであろう両者の違いに気づかなかったのだ。

「この鼈甲(べっこう)の櫛はこのようにとても綺麗で、しかも滑らかに髪を()けるんですよ。その上、このデザインはヴェネチアで今流行の・・・。」

などとペラペラ喋りながら、狩人は鏡に向かうジゼルの髪を梳く。ジゼルも、暗殺者かも知れない男と2人きりという状況の危険性は充分に承知しており、狩人に髪を預けながらも、油断無く身構えていた。鏡を通して、ジゼルは狩人の手元を見つめ、狩人が何かを取り出そうとしたり、怪しげなそぶりを見せたら、いつでも逃げられるようにしていた。

それにしても、いつもは少なくとも1人は残っているはずの小人が、どうしてこういう時に限って誰もいないのだろうか。

ぶつっ!

卒然、何かが切れるような鈍い音がして、ジゼルの目の前に鮮血が飛び散った。一瞬、何が起こったのかわからなかった。次の瞬間、ジゼルの視界は急速に暗くなった。狩人が手にしていた櫛に刃物が仕込んであり、それでジゼルの頚動脈を掻き切ったのだ、ということに気づいたのは、彼女が自分自身の血の河を渡り、黄泉の国への第一歩をまさに(しる)そうとした頃だった。

 

 

仕事を終え、帰宅途中の小人の一人が、狩人らしき男が足を引き摺りながら、王都の方角へ歩いていくのを目撃している。その時その男は、歩きながら声を放って泣いているようだったという。

 


 

6.取引

 

ジゼルの訃報を聞いたとき、残ったエレーヌとアンは無言だった。すっかり落胆した2人は、一言も発することができなかったのだ。ブランシュ姫の時とは違い、今回の悲劇は防ぐことができたはずだった。囮としてたった一人乗り込むと言い張るジゼルを、無理やりにでも止めるべきだったのだ。

「2人になっちゃったね・・・。」

ぽつりと呟いたアンを、エレーヌは抱きしめる。この時、彼女は復讐を諦めた。死んでしまった2人には悪いが、残った2人にも身の危険が迫っている以上、まだ生きているアンを守ることを最優先せざるを得ないのだった。

「危険って・・・?」

「つまりね・・・。」

エレーヌはアンを相手に、問題を整理してみた。一人で考え続けながら冷静さを保つ自身がなかったからだが、実際に言葉にしてみると、だんだん事態が明確になってくる気もしてきた。

今回の事件の真相について、エレーヌは2つの可能性を考えていた。

1.ジゼルをブランシュ姫と誤認し、ブランシュ姫が生きていると思って殺した。

2.ジゼルがブランシュ姫の殺害犯人を調べていることを察知して、殺した。

この内、1番が真相だった場合は、特に問題はない。今後「ブランシュ姫」が姿を現さなければいいだけの話である。しかし、もしも2番だった場合、残ったエレーヌとアンの身にも害が及ぶかも知れないのだ。

ジゼルはそもそもブランシュ姫に扮して小人たちの家に乗り込んだ。もともと姫にそっくりな顔に、ブランシュ姫の髪型を模した鬘を被っており、小人たちの家にいたジゼルはまさにブランシュ姫に瓜二つだった。しかし、今回の実行犯はブランシュ姫と親しかったあの狩人だったらしい。だとすれば、天真爛漫だったブランシュ姫とは違うクールなジゼルの態度から、正体を見破られてしまった可能性も充分にありうる。しかも、狩人が実行犯だとすれば、主犯は恐らく王妃だろう。王妃は王国ないでもトップクラスの権力者であり、王都にいれば、いつ人知れず消されてしまうかわからない。

「どうやら、早急に何らかの手を打たないといけないみたいね。」

エレーヌは厳しい表情でそう言った。自分たちの身にも危険が迫る可能性がある、それがエレーヌの出した結論だった。

「とにかく、私が何とか動いてみるから、迂闊(うかつ)な行動はしないようにね、アン。」

エレーヌの言葉に、アンは真剣な表情で(うなず)いた。だが、その時アンの胸には、密かな決意が秘められていた。

 

 

数日後、隣国のヴァンダドール王国の王宮では、奇妙な客人を迎えることになった。

その「客人」は、農民風の粗末な身なりをした、若い女性であった。にもかかわらず、彼女が王宮に「客人」として遇されたのは、彼女がクレサージュ王家の血縁を名乗ったこと、そして門番と押し問答をしている時にたまたま通りかかった貴族がブランシュ姫の顔を見知っており、姫にそっくりなこの女性をクレサージュ王家の者に違いないと保証してくれたからだった。

謁見の間に通された女性は、王太子のルイ王子に目通りした。王子は豪奢な椅子の肘掛に(ほお)(づえ)をついた姿勢で、客人に話しかけた。

「名は何と申されるか。」

女性は姿勢を正して、静かに答えた。

「エレーヌと申します、殿下。クレサージュ王ギョームの庶子でございます。諸事情により、王の庶子の存在は公にはなっておりませんが。」

エレーヌの態度は堂々としており、粗末な服装にもかかわらず、その凛とした美しさには、居並ぶ家臣団からは思わず溜息が漏れた。

ルイ王子は姿勢を変えず、鋭い視線をエレーヌから離さずに、重ねて訊いた。

「して、今回のお忍びでのご訪問の目的は何かな。貴女はギョーム王の内々の使者というわけなのか。」

「いいえ、私は王の使者ではありません。クレサージュ王国の王位継承権第一位の王族として、個人的にルイ王子にある提案をしに参りました。」

ルイ王子の表情筋はまったく動かないまま、右の耳がぴくっと動いた。妙なところで器用な男だ、とエレーヌはいささか場違いな感想を抱いた。

「詳しく聞こうか。」

ルイ王子に促されて、エレーヌは話しはじめた。

「クレサージュ王妃が娘のブランシュ姫を殺し、今自分と妹の命も狙っています。そこで、自分と妹の身柄の保護をお願いしたいと思います。」

「見返りは?」

「私が王子さまと結婚します。私と結婚することで、王子さまにはクレサージュ王国の王位継承権が発生します。」

家臣団がざわめき始めた。ルイ王子はそれを目で制した。

「どうでしょうか。貴国にとって、また王子さまご自身にとって、決して悪い話ではないと思いますが。」

「しかし、ギョーム王はまだ貴女を公式に認知してはいないのだろう。今の貴女と結婚しても、王位継承権は発生しないのではないのかな。」

「私がブランシュ姫を名乗ります。ブランシュ姫は今でも公式には行方不明ですし、顔もそっくりです。」

「それでも、クレサージュ側が偽者だと主張したら?」

「本物はもういませんし、遺体もそのまま森の中で埋葬してしまいましたから、私が偽者であるという証拠もありません。それに何より、この顔ですから、ちょっと扮装をすれば、クレサージュのほとんどの人たちが『ブランシュ姫だ』と証言してくれると思います。」

エレーヌの言葉は滑らかで淀みなく、態度は悠然としており、顔には微笑みすら浮かべている。卑しい服装のことなど忘れ去って、家臣団は(ほう)けたように彼女に見とれていた。

「エレーヌ殿、貴女のご提案は検討に値するようだ。結論が出るまで数日間ほど、我が王宮に滞在されるといい。」

エレーヌは恭しく一礼すると、王子の好意を礼儀正しく謝絶した。

「誠に光栄ですが、私も早々に戻らないと、妹に危害が及ぶやも知れません。お返事はまた改めてということで、本日のところはこれで失礼させて頂きます。」

 

 

エレーヌが去った後、家臣団は彼女の提案について議論をした。賛否両論、意見百出したが、エレーヌの言葉に疑いを持った者はいなかった。どうやら彼女には外交交渉の才覚があったようだ。

家臣団の議論をよそに、ルイ王子は頬杖をついた手の中に顔を(うず)めるようにして、何事かを考えているようだった。彼はただの一介の王子ではない。ヴァンダドール王ジュール4世は、クレサージュ王ギョーム1世と同年代だが、病気がちであり、政務はまだ20代のルイ王子が摂政として執り行っていた。ルイ王子はもう7年も摂政を務めており、その冷静な判断力と実行力は、実戦の場で鍛え上げられていた。その怜悧な脳裏では、いったいどのような策略がめぐらされているのか、余人には窺い知れない。

 


 

7.毒入りりんご

 

――王妃よ、ブランシュ姫は生きて小人たちの家にいるぞ。

イエスの声に、王妃は愕然として顔を上げた。光の中のイエスは、今まで見たこともないような厳しい表情だった。

殺しても殺しても、執拗に生き返る。ブランシュ姫は人外の魔物なのか、それともあの美しさで悪魔を誘惑でもしたのか。王妃は恐怖のあまり膝がガクガクと震えるのを止められなかった。

――ブランシュ姫を殺せ。あの娘はもはや、私とお前の聖なる娘ではなく、神の摂理を冒涜する魔女である。神の国の権威を守るために、今度こそブランシュ姫を殺すのだ!

 

 

王都に帰ってくるや否や、エレーヌは門番の家にアンを訪ねた。しかしアンは不在で、アンの養母が応対した。

「いったい、いつ出かけたんですか?」

エレーヌは、心なしか声を低めて尋ねた。悪い予感がした。

「今朝早くに出たわよ。森であんたと会うって。なんだか、長い髪の(かつら)なんか持って行ったけど・・・」

アンの養母が言い終わらぬ内に、エレーヌは(はじ)かれたように、森へ向かって駆け出した。

 

 

アンは、小人たちの家に一人座っていた。小人たちは、またしても留守だった。

静かな家の中で、アンはブランシュ姫のことを、この家で2人でよく遊んだことを思い出していた。ブランシュ姫は宮廷で大人に囲まれて育ったため、アンのような庶民の娘がするような遊びは何一つ知らなかった。花を摘んだり、蝶々を追いかけたりしている時、ブランシュ姫は心から楽しそうだった。

コンコン、とドアをノックする音で、アンの夢想は破られた。

「果物売りだよ。りんごはいかがかね。」

老婆のような声が聞こえると、アンの全身に緊張が走った。こんな森の奥に物売りの老婆が来るということの不自然さが、アンを警戒させた。もしかして、暗殺者が標的に近づく方法かも知れない。アンはさり気なく、しかし最大限の注意を払って、ゆっくりとドアを開けた。

あっ、とアンは危うく声を出してしまうところだった。そこには王妃その人が立っていたのだ。王宮の門番の家で育てられたアンは、一般の庶民よりも王妃の顔を見る機会が多く、すぐに王妃の顔を見分けられたのだった。

「ブランシュ、生きていたんだね。良かった。本当に良かった。」

王妃は涙を流さんばかりに言うと、アンを抱きしめた。いくらそっくりとはいえ、実の娘の顔を誤認するとは、王妃の精神も相当に病んでいたようだ。

出し抜けに抱きしめられたアンは混乱していた。王妃はブランシュ姫を殺した主犯格と考えられている。その王妃がなぜ「ブランシュ姫」の生存を喜ぶのか。王妃の態度に感応しない「ブランシュ姫」に対して、やや寂しげに王妃は語りかけた。

「まだ私を許してくれないのかい。ああ、無理もないか。お前の首をこの手で絞めてしまった私を、そんなに簡単に許せようはずがないものね。」

アンは衝撃を受けた。てっきり王宮から犯行の指示を出していたものと思っていた王妃は、自分自身の手で自分の娘を殺したのか。妹は実の母親の手で、生命を落としてしまったというのか。

「あれは、はずみだったんだよ。ついカッとなってしまって、前後の見境を失ってしまったんだ。もの凄く後悔したよ。実の娘をこの手で絞め殺してしまうなんてね。だから、お前が生きていてくれて、本当に嬉しいんだよ。お願いだから、この愚かな母を許しておくれ。」

王妃の涙ながらの訴えかけを信じたわけでは決してない。だがこの時、アンは王妃の手を取って微笑みかけた。

「お母さま、許すも何も、私は怒ってなどいませんわ。お母さまを怒らせてしまった私が悪いんですもの。こうして会いに来て下さっただけで、どんなに嬉しかったか。」

王妃を油断させるために、和解した風を装っておいた方が得策だと、アンは判断したのだ。その方が、王妃から更なる情報を引き出しやすくなる。王妃が自らの口から罪を告白した以上、あとは手順を踏んで法的に追い詰めるだけである。

「でもお母さま、どうして私がここにいることをご存知だったの?」

「夢の中でイエスさまのお告げがあったのだよ。ブランシュ姫は生きて小人たちの家にいる、とね。」

夢のお告げ? アンは内心首を(ひね)る。そんな不確かなもので3度も「ブランシュ姫」を探し当てたのだろうか。

そういえば、門番の家には昔から「小人が王宮に来た時は、無条件で通すように」という不文律があった。そんなことが、何の脈絡もなく、アンの頭をよぎった。その理由は確か・・・。

「そうそう、今日はお土産に、お前の好きなりんごを持ってきたんだよ。」

王妃はそう言って、籠からりんごを取り出すべく、視線を逸らしたため、その時アンが蒼白な顔色をしていたことに気づかなかった。瞬間的に、アンはこの一連の事件の真相を悟ったのだ。すべての黒幕は、あの人物しかいない。そう考えれば、王妃の「夢のお告げ」も、王妃が「ブランシュ姫」の所在を即座につきとめえたことも、すべてが一本の線に繋がるのだ。

王妃が籠からりんごを取り出して、アンに向き直った頃には、アンはもうにこやかな表情に戻っていた。とにかくこことやりすごして、エレーヌに事件の真相を知らせなければ。

「ほら、美味しそうだろう。ささ、お食べ。」

王妃の差し出すりんごを目の当たりにして、さすがにアンは警戒した。何といっても、王妃はブランシュ姫の殺害犯であり、執拗に生き返る「ブランシュ姫」を再び自らの手で葬り去ろうとしている可能性は充分にあったのだ。

王妃は寂しげに微笑んだ。

「やっぱり、そう簡単には信用してくれないんだね。それじゃ、私が毒見してあげようか。」

そう言うと、王妃がりんごを一口かじった。その上で、そのりんごをアンに手渡す。そこまでされては、アンとしても差し出されたりんごを食べないわけにはいかなかった。アンは、受け取ったりんごの、王妃がかじった反対側を、一口かじった。

「美味しい・・・。」

ブランシュ姫と同様、アンもりんごが大好きだった。ふと、今、この光景を誰かが見ていたら、その目には自分たちが麗しい母子に見えるのだろうか、そんなことをアンは思った。両親の愛を一身に受けて育った本物のブランシュ姫も、かつては実の母親とのこのような時間を持てたのだろう。そしてこの小人たちの家での最後の対面において、一瞬だけでも、母子の心の交流が復活したのだろうか。アンは、口の中に広がる芳香を、複雑な思いで味わった。

「食べたね・・・。」

不気味な呟きが、アンの淡い夢想を破った。その、地の底から響くような邪悪さを(まと)った声が、先ほどまで優しげな声で語っていた王妃が発したものだと気づくのに、やや時間を要した。

「りんごは蛇がイヴに食べさせた禁断の果実で、悪魔の木の実でもあるんだよ。魔女に身を堕としたお前にはぴったりだよ。はははははは!」

唖然とするアンの目の前で、王妃の狂ったような高笑いは、異様な響きで家の中を満たした。アンは王妃の精神の崩壊を目の当たりにした気がした。ブランシュ姫への愛情と殺意、強迫観念と罪悪感の間を何度も往復して、王妃の精神はついにその負荷に耐え切れなくなったのだ。それもこれも、すべてあの人のせいで。いっそ、自分の正体を教えてやろうか。そして本物のブランシュ姫はもう死んでいると。そうすれば、少しはこの哀れな女性の気持ちも楽になるのだろうか。

「お母さま、私は・・・。」

その瞬間、急に目の前が暗くなった。全身がだるく、身を起こしているのさえ辛い。

「毒が回ってきたようだね。このりんごには、片側だけに毒が仕込んであったのさ。」

王妃の勝ち誇ったような声を耳にしながら、アンの視界は急速に暗度を増した。いつの間にか椅子から滑り落ち、両手両膝を床についている。目の前の床が自分の吐血で見る見る赤く染まる。

まだ死ねない。王妃が高笑いを残して立ち去ってゆくのを感じながら、アンは思う。この事件の真相をエレーヌに知らせなければ・・・。

 

 

やがて王妃の姿が見えなくなると、物陰に潜んでいた何者かが姿を現し、血の海に沈みかけているかのようなアンに近づいていった。

 


 

8.陰謀

 

エレーヌは走る。

森の中は木々の葉で日差しが適度に遮られ、下草が短いためにわりと歩きやすいとはいえ、木の根がそこら中に張り巡らされて、地面の凹凸が激しいため、走るのは容易ではない。エレーヌは何度も転びそうになりながらも、走るのをやめようとはしなかった。

ブランシュ姫はどこで殺された? ジゼルは? アンはそんな危険な場所へ、1人で向かったのだ。エレーヌが駆けつけたからといって、殺人者からアンを守りきれるかはわからない。それでも、駆けつけずにはいられなかった。

そもそも、エレーヌはアンを守ることだけを考えてヴァンダドールまで赴いて、たった1人で見知らぬ国の王宮に乗り込み、身売りにも等しい申し出までしたのだ。だいたい、ルイ王子のような冷酷そうな男は、エレーヌの好みではない。エレーヌだって年頃の娘であり、幸せな結婚を夢見ている一面もあるのだ。それを捨ててまで、嫌いなタイプの男性と政略結婚をするのも、すべてアンを王妃の魔手から守るためなのだ。もしここで、アンまで死んでしまったら、自分は一体何のために・・・。

やがて小人たちの家が見えてきた。玄関のドアが開いており、中では小人たちが、床に落ちている何かを取り囲むようにして、集まっている。近づいていくエレーヌに気づいたのか、1人の小人が悲しそうな顔を彼女に向けた。

その瞬間、エレーヌの背筋を氷塊が滑り落ちたように感じられた。彼女がドアの前で急停止すると、小人たちが輪を解いて両脇に退き、赤黒く変色した床の上にうつ伏せになっている少女の姿が目に映った。その少女は、ブランシュ姫がこの家でよく着ていた服を身につけ、ブランシュ姫によく似たストレートの黒髪だった。氷の掌で心臓をわしづかみにされているような気分で、おそるおそる近づいて床にしゃがみ込み、震える手でその冷たい身体を抱き起こすと、ストレートヘアの鬘が滑り落ち、天然パーマの髪が露わになった。ブランシュ姫に、そしてエレーヌとジゼルにもよく似た土気色の顔に、安らかな無表情をたたえて、アンは静かに眠っていた。

「アン・・・。ごめんなさい・・・! ごめ・・・」

言葉は途中で途切れ、代わりに何かを挽き潰すかのような嗚咽が漏れた。

 

 

門番の家にアンの遺体を引き渡し、傷心を抱えて帰宅したエレーヌを、意外な人物が待ち受けていた。

「ルイ王子、どうしてここに?」

驚くエレーヌに、ルイ王子はにこりともせずに用件を伝える。

「貴女の提案に乗ってみることにしました。今日はそのことをお伝えに来たのです。」

「王太子殿下ともあろうお方が、わざわざそれだけのために?」

礼を失しないように気をつけてはいたが、エレーヌの口調にはどうしても投げやりな気分が混入してしまう。今さら嫌だというわけにもいかないが、アンが死んでしまった今、この話を進めるのは気が重かった。

「エレーヌ殿、復讐をしたいとは思いませんか。」

「復讐?」

エレーヌは顔を上げた。

「ブランシュ姫をはじめ、貴女の妹御を皆殺しにした者に報復をするのです。彼女たちの無念を晴らしたいとは、思いませんか?」

あくまで冷徹なルイ王子の声は、生きる目的を失って虚ろになっていたエレーヌの眼に新たな光を灯すことになった。それは、今までの彼女にはなかった、暗く、冷たい光だった。

 

 

この頃、王妃の精神は分裂・解体の危機に直面していた。実の娘を繰り返し殺してしまったという罪の意識、毒食らわば皿まで的な開き直り、そして、魔女から神の国を守ったという悦びが入り混じり、それぞれの気分の間を激しく行き来した。王妃は毎日、敬虔な祈りを捧げつつ、一方では気晴らしのように狩人の拷問を楽しんだ。

「今日は何をしようかしら。昨日は水攻めだったから、今日は、重い荷物を持たせて1日中立たせておくとか、楽しそうね。」

楽しげな口調で恐ろしげな独り言を呟いている時が、王妃が最も生き生きとしている時だった・・・。

 

 

ルイ王子が王宮を訪れたのは、そんな時のことだった。

突然訪問した隣国の王太子を、王は王妃と2人で迎え、歓迎した。

「急なことで、ろくな歓迎もできず、まことに申し訳ない。」

「お気になさらず。突然押しかけたこちらが悪いのですから。実は・・・。」

ルイ王子が従者に目配せした。従者は(おもむろ)に書簡を取り出すと、封泥を解き、羊皮紙を広げて文面を朗々と読み上げた。それはルイ王子の結婚式への招待状だった。

「それは、実にめでたい。ジュール王も一安心ですな。して、お相手はいずれの姫君ですかな。」

ギョーム王の鷹揚な問いに、ルイ王子は口元にだけ笑みを浮かべて答えた。

「その正体は、当日のお楽しみということにしておきましょう。さる国の王女とだけ、申し上げておきます。」

「まあ、それはまた、楽しみな趣向ですこと。ほほほほ。」

王妃の顔にも、久しぶりに晴れやかな表情が浮かんでいた。彼女にとっても、ルイ王子の突然の訪問と結婚式への招待は、新鮮で心躍る出来事だった。

 

「王に持病がおありだったとは、初耳ですな。」

書記官は意地悪な笑みを浮かべる。それを受けて、王が冷笑混じりの声を発した。

「人生は、常に新鮮な驚きに満ちているものだ。」

公務を行う部屋とは別に、城の地下に秘密の書斎を王は持っていた。今まで他をはばかる様々な報告・命令・相談がなされたこの空間で、王は書記官に口述筆記をさせていた。文面を書き終えると、その文書は王の前に差し出された。それは、ヴァンダドール国王宛ての書簡であり、その中には「持病の悪化により」ギョーム王は結婚式を欠席し、王妃1人が出席する旨が記されていた。

ギョーム王は字が読めない。これは彼の知能レベルが低いことを意味しない。中世において王侯貴族は「戦う人」であり、読み書きは彼らにとって必要ではなかったのである。この時代の識字率の偏向ぶりには独特なものがあり、識字人口の大半は、学問・芸術のほとんどを独占する聖職者、そして簿記や契約書などを扱う商人によって占められていた。王といえども、命令書にサインするために自分の名前を書くことができれば、それでよかった。

「この書簡が、ルイ王子の結婚式の前日にヴァンダドール王宮に届くよう、手配せよ。」

書簡にサインをすると、王はそう言って書記官に放ってよこした。他言無用、という言外の指示を、書記官は正確に受け取っていた。

 

 

結婚式の前日、クレサージュ王からの書簡を受け取った人物は、相変わらず肘掛け椅子に行儀悪く頬杖をついた姿勢でそれを読んだ。学問好きで文字を読むことのできる貴族も、中にはいる。

ちなみに、この時ルイ王子は声を発さずに「黙読」している。実はこの「黙読」の習慣は15世紀頃にようやく一般化してきたもので、それ以前の人は、声を出さないと本も読めなかったらしい。喉を痛めた人が、医者から「読書禁止令」を出された、などというエピソードまで伝わっている。

書簡を「黙読」し終わると、ルイ王子はそれを無造作に放り投げた。慌てて駆け寄った従者が書簡を拾い、指示を仰ぐべく王子を見上げた時、既に王子は思考の迷宮深くに入り込んでいた。

 


 

9.結婚式

 

「ねえ、あれは何をしているの?」

「ああ、あれは放浪説教師ですわ。今日はおめでたい日で、人々が集まってくるので、ああして自説を説いて回る自称聖職者にとっても書入れ時なのでしょうね。」

結婚後のほとんどの時間を王城内で過ごした王妃にとって、隣国・ヴァンダドールへの旅は心楽しく、ワクワクするものだった。町を行きかう人々や荘園で働く農夫も、彼女には新鮮だった。ヴァンダドールの王都に入ると、町中が祝祭ムードで、ますます王妃を上機嫌にさせた。

王妃はここ数日、ブランシュ姫がまた復活するのではないかという不安にしばしば襲われ、夜もあまり眠れなかった。「ブランシュ姫」を毒殺した日以来、イエスが姿を現さないことも、彼女の不安感を煽った。そんな王妃にとって、外の世界はいい気分転換になったようだ。

 

 

王城内に入ると、王妃は妙な違和感を感じて、戸惑いを覚えた。結婚式だというのに、祝祭ムードがどこにも感じられないのだ。城内は静かで、かといって暗く沈んでいる風でもなく、緊張感が張り巡らされているようだった。いったいこの雰囲気は何なのか。首を捻っている間に、王妃は謁見の間に通された。

王妃は謁見の間に一歩踏み入れた瞬間、息を呑んで立ち尽くした。そこには、外国からの招待客と思しき人物は1人もおらず、廷臣らしき者たちばかりが、ずらりと並んでいた。だが、王妃の目には彼らの姿は一切映っていなかった。彼女の、大きく見開かれた両眼は、真正面を凝視したまま固まってしまったようだった。視線の先には玉座に座るルイ王子、そしてその隣の席には王妃が自らの手で殺したはずのブランシュ姫が座していた。

永遠にも思われた一瞬の後、王妃の凄まじい悲鳴が謁見の間に響いた。

「お母さま、本日はこのブランシュのために、遠路はるばるお越しいただきまして、誠にありがとうございます。今まで本っ当に色々とお世話になりましたわね。私からの、ほんのささやかなお礼ですわ。どうぞ受け取って下さいまし!」

新王太子妃の「ブランシュ姫」ことエレーヌが合図をすると、裁判官たちが現れ、宣誓用の聖書と聖書台が運ばれてきた。謁見の間は即席の裁判所に早変わりした。エレーヌは証人席に立つと、聖書に手を置いて宣誓した。

「この女は、魔法の鏡を使って永遠の美しさを手に入れようとし、魔術を使って自分の娘を殺そうとしました。私はこの女を魔女として告発します。」

この時代、ようやく「魔法で犯罪を犯すこと」ではなく「魔女であること」そのものが罪に問われる、本格的な魔女裁判時代に突入していた。一般に、魔女裁判には明確な物的証拠は不要とされていた。魔法によって容易く証拠隠滅が可能と考えられていたからだ。いうまでもなく、ここでエレーヌが告発理由とした「魔術」も「魔法の鏡」も、すべてでっちあげである。すべては王妃を陥れるために仕組まれた茶番であった。

この城に入った時に王妃が感じた奇妙な緊張感の正体とは、陰謀の匂いだったのだ。

 

 

裁判が進み、王妃はなす術もなく追い詰められていった。今や王妃は放心したように、被告席に座り込んで自分に対する根も葉もない告発を、他人事のように聞き流していた。

すぐにでも王妃を処断できると思っていたのだろうか、裁判手続きの煩雑さにエレーヌは早くも()れ始めた。

「火あぶりにしておしまい!」

ついにエレーヌは立ち上がって叫んだ。怒りの形相も凄まじく、傾国をうたわれたブランシュ姫と瓜二つの美貌は、見る影もなく歪んでいた。

「待て!」

静かだが鋭い制止の声が飛び、エレーヌは声のした方へ憤怒の眼差しを突き刺した。声の主・ルイ王子は平然と肘掛に頬杖をついていたが、その周囲に侍る者たちは怯えて縮み上がった。

「鉄の靴にしよう。」

王子の提案に、エレーヌは微笑を浮かべた。眼は異様な光を放ち、口の両端が微妙に吊り上がる。それは見る者を凍りつかせるほどの残酷な、毒々しい微笑だった。

ほどなく、謁見の間にはやや大きめな、不気味な鉄製の靴が運ばれてきた。それが真っ赤になるまで熱せられると、王妃の貌がこれ以上ないくらいに引きつった。

王妃は両側から抱え上げられ、今まで履いていた靴を脱がされた。そしてその足が、無理やり真っ赤に焼けた鉄の靴に差し入れられようとすると、意味不明の絶叫が放たれる。抵抗も虚しく、ジュッという音とともに足は完全に靴の中におさまると、絶叫は更に1オクターヴほど跳ね上がる。

最後に、刑吏が大きなハンマーで、真っ赤な鉄の靴を叩き潰した。

「――!!!」

『地獄絵図』とはこのような光景のことをいうのであろう。真っ赤な鉄の靴を履いた王妃は、人間として可能な限りの声量を振り絞って何事かを叫び、両足にそれぞれ5kg以上もの鉄塊をつけながら激しいダンスを見せた。由来、命尽きるまで踊りつくすこの踊りは「死の舞踏」とも呼ばれたが、この場にいたほとんどの人物にとってそれは初めて直接に目撃する光景だった。

石造りの城内に響き渡る絶叫、鉄と人間の皮膚が焼ける異臭。あまりの惨状に、ある者はたまらず眼をそむける。ある者は貧血を起こしてその場にへたりこむ。嘔吐を始めたものすらいた。突然、誰かがヒステリックに笑い出した。精神が極限状態に達したのだろうか。

平然と見ているのは、王子とエレーヌの2人だけだったが、2人の表情は対照的だった。エレーヌは、場違いなほど穏やかな笑みを浮かべ、満足感を全身で表していた。一方の王子は、相変わらず肘掛に頬杖をついて、冷めた眼差しでこの狂乱の宴を見つめていた。

 


 

10.逆襲

 

「・・・以上のように、王妃は鉄の靴を履かされて『死の舞踏』を演じ、倒れて息絶えましてございます。」

クレサージュ王宮の地下の秘密の書斎で、ギョーム王はある男の報告を聞いていた。報告しているのは、ヴァンダドール王宮に仕えている騎士の旗手、つまり、ギョーム王がヴァンダドールに潜り込ませた密偵の1人である。ギョーム王は周辺各国や遠隔地の多くの国にこの種の密偵を入り込ませている。逆に、クレサージュの王宮にも、各国の密偵が跳梁しているだろう。だからこそ、この部屋のような秘密の書斎が必要になる。

報告を終えた男を下がらせると、王はひとり悦に入っていた。彼が今まで張り巡らせてきた計略が、ついに実を結んだのだ。ギョーム王はかねてより遠方の大国・ヴィレンツ王国の王女との結婚を望んでおり、水面下での交渉を進めていた。大国の王女と結婚することにより、自分の権威をより高めることが目的である。しかしそれには「王妃」の存在が邪魔であった。当時、カトリック教会は離婚を固く禁じており、王妃が死亡でもしない限り、王といえども再婚はできない。現王妃は、王の即位当時に王国の実権を握っていた大臣の娘だった。執着などないばかりか、屈辱の時代を思い出させる存在でしかなかった。

ブランシュ姫と王に関する噂を宮廷中に広めた張本人が、実は王自身だったというところに、この王の陰湿さが見え隠れしている。その後、狩人とブランシュ姫の噂を流すという策を、アンに耳打ちしたのも王だった。これで王妃は、精神のバランスを失ってしまった。

ブランシュ姫が小人たちの家に避難して以後、王の暗躍は一層活発になった。眠っている王妃の耳元で「ブランシュ姫はまだ生きているぞ」などと囁くのである。もともと、夢にイエスさまが現れたとか、イエスさまの白昼夢を見たなどと言っているような女である。案の定、効果は絶大で、王妃は「イエスさまのお告げ」だと言って、ブランシュ姫殺しに狂奔してくれた。

そもそもブランシュ姫が小人たちの家に匿われることになったのも、半分は王の画策である。実は、小人たちは本業の鉱山労働のかたわら、王の密偵も務めていたのだ。王は小人たちに狩人とブランシュ姫を監視させ、姫を保護するよう命令していたのだ。その後、ジゼルやアンが小人たちの家に行ったという情報も、王のもとにはほとんどリアルタイムで入ってきていた。王妃や狩人が彼女らを殺しに行く頃合いを狙って小人たちを全員外出させるようなことも、王だからこそできたことなのだ。

もし王妃が4姉妹を殺しつくしてしまったら、小人たちに告発させて、殺人罪か魔女として処刑するつもりだった。そのように共倒れしてくれた方が、後腐れがなくてよかった。結局エレーヌはしぶとく生き残り、ヴァンダドールの王太子妃に納まってしまった。こうなるとギョーム王といえども簡単には手を出せない。だが、彼女は王妃を「妹たちの仇」として殺してしまい、満足したはずなので、特に害はないだろう。

これでようやく、長年の念願がかなうのだ。王妃と死別した以上、新たな王妃を迎えるのに、何の障害もない。あとは、盛大な結婚式で、王の権威を内外に示すだけだった。

 

 

数ヵ月後、クレサージュ王ギョーム1世の結婚式が、華やかに執り行われた。新王妃は、はるか遠方の大国・ヴィレンツ王国の第二王女である。

招待客の中には、ヴァンダドール王国の王太子夫妻も名を連ねていたが、この日彼らはやや遅刻し、結婚の誓いの場に居合わせることができなかった。結婚の儀に続くパーティーの会場に2人が姿を現すと、招待客の間にどよめきが起こった。もともとブランシュ姫の美貌は近隣諸国の間でも有名だったが、その評判は愛らしさやあどけなさを多分に残したものだった。ところが、今目の前にいるヴァンダドール王太子妃は、その美貌に成熟した大人の魅力を加え、蠱惑的なフェロモンを発してさえいた。

「この佳き日に遅参してしまい、誠に申し訳ございません。お招きに与りまして、恐悦に存じます。本日は誠におめでとうございます。」

ルイ王子の口上に、ギョーム王は鷹揚に頷いてみせた。

「本日は、お祝いをお持ち致しました。お受けくだされば幸いでございます。」

ルイ王子が言うと、エレーヌが従者に合図して、後方から何かが引き出されてきた。周囲でざわめきが起こる。運ばれてきたものは椅子だった。椅子の足にはそれぞれ車輪がつけられており、それを従者が押していた。椅子の上には女性が乗っている。長い黒髪を振り乱し、頬はこけ、落ち窪んだ眼光だけが鋭く、壇上の王を睨みつけていた。

人々に思わず声を上げさせたのは、しかし、その容貌ではなく、この女性の足の膝から下が切断されていたことだった。クレサージュの新王妃は気味悪げな表情をしたが、その隣に座る彼女の夫は、全身の血液が流れを止めたのではないかと思われるほどに青ざめた顔をして、椅子の上の女性を見ていた。

ルイ王子が、珍しく声を張り上げた。

「本日お集まりの、各国の高貴な紳士淑女のみなさま、クレサージュ王国の貴族・騎士のみなさま、司教様をはじめ聖職者の方々、ならびにその他のご招待客のみなさま方。この方は、こちらにおられるクレサージュ王ギョーム1世陛下の妻にして、クレサージュ王国の王妃陛下であらせられます。この通り、王妃陛下はご健在にも関わらず、本日のご結婚の誓いは、多数の高貴な証人の方たちの前で既に済まされたとのこと。これは、明らかな二重結婚であります。」

 

 

ルイ王子は、どうして都合よく王妃を生き返らせることが出来たのだろうか。いうまでもなく、エレーヌとの結婚式の時点でギョーム王の陰謀を察知していたからに他ならないが、それでは、どうやってその情報を得ることが出来たのだろうか。

結論から言えば、実は王妃による姉妹の連続殺害事件の真相を、ルイ王子がアンから聞いていたからだ。

小人たちの家でアンに毒入りりんごを食べさせた王妃がその場を去ると、物陰からそれを見ていたルイ王子は、瀕死のアンに近づいた。アンは僅かな時間だけ息を吹き返し、つい先刻気づいた事件の真相を王子に話したのだ。小人たちが王の密偵をしていることを思い出したアンは、ギョーム王が裏から王妃や自分たちを操っていたことに気づいたのだ。

そこまでわかれば、ルイ王子にとっては、すべてが1本の線となって繋がった。その頃までにルイ王子は、ギョーム王がヴィレンツ王国と水面下で何やら交渉をしていることを察知していた。ヴィレンツ王国の第二王女は、既に20歳過ぎにもかかわらず、結婚話のひとつも持ち上がらないことで、不思議がられていた。それらの情報を総合すると、王女との結婚を望むギョーム王が現王妃を始末しようとしているという図式が、ルイ王子の頭の中で組み上がった。

これは、実はルイ王子にとっては端倪すべからざる事態だった。このまま傍観していれば、ギョーム王は若い王妃を迎え、新たな王子が誕生してしまうかも知れない。そうなれば、クレサージュ王位への野望は頓挫することになる。

『死の舞踏』で力尽き、倒れた王妃をさっさと奥へ連れて行き、「息絶えた」と宣言しておいて、治療を施して密かにそのまま生かしておいたのだ。もちろん、ギョーム王の結婚を妨害するためだが、かえってこれを奇貨として、一気にギョーム王の失脚を狙うことにしたのだ。

この時点で初めて、エレーヌはアンの遺言の存在を知った。彼女はルイ王子の狡猾さに呆れたが、妹たちの仇討ちのため、ルイ王子の野心的な計略に協力せざるを得なかった。

 

 

「私、ヴァンダドール王国王太子ルイは、ここにクレサージュ王国国王ギョーム1世を二重結婚の罪で、告発いたします。」

ルイ王子は高らかに宣言した。おそらくこのまま宗教裁判になれば、ギョーム王はよくても退位宣言をせねばならず、悪くすれば破門宣告を受けかねない。

ギョーム王は玉座に座り込んだ。この時の彼には、あと僅かしか座ることの出来ないその感触を味わう余裕などなかった。

 

 


 

エピローグ

 

一命を取り止めて以来、王妃はずっと夢の中の世界に住み続けている。やがてギョーム1世とジュール4世が相次いで退位し、ルイ王子がクレサージュ・ヴァンダドール両王国の王位を継いで、かつてのクレサージュ王妃が大后となっても、それは変わらなかった。大后は今、憧れのイエスさまといつも2人きりの状態であり、傍目にはともかく、本人の内面は結構幸せなのかも知れなかった。

「お義母さま、お食事の時間ですよ。」

クレサージュ・ヴァンダドール両王国の王妃となったエレーヌは、毎日大后の部屋を訪れては、話しかけたり食事の世話をしている。大后の侍女たちは恐縮したが、もともと高貴な育ちではないエレーヌにとっては、この程度のことはなんでもなかった。それに彼女は、冷酷なルイ「王」のそばにいることに、もううんざりしていたのだ。

結局、この女性も父王に振り回された被害者だったのだ。彼女だけではない。ブランシュ姫も、ジゼルも、アンも、そしてエレーヌ自身も、みな男たちの勝手な思惑の道具にされ、無残に使い捨てられた。こうなってみて初めて、この義母の苦悩を僅かながらでも理解できるようになったと思う。

スプーンを口元に運び、それが唇に触れると、大后は僅かに口をあける。そこへ食べ物を挿入すると、ゆっくりと咀嚼して飲み込む。生きるための最低限の本能が、彼女をどうにか生き永らえさせているようだった。その様子を、エレーヌは穏やかな微笑をもって見守っている。今や、エレーヌにとってはこの人の側だけが、心安らげる場所になってしまった。何とも皮肉な話ではあるが。

「お義母さま。お父さまが、ギョーム王が亡くなられたそうでございますよ。」

食事を終え、片付けながらエレーヌが言った言葉にさえ、大后は無反応だった。もともと愛情深い夫婦ではなかったから、それも無理のないことなのかも知れない。エレーヌは軽く身震いした。義母の姿に、同じく愛のない自分たち夫婦の行く末を垣間見たような気がしたのかも知れなかった。

 

エレーヌが去ると、室内には大后1人が残った。その時、大后の頬を、ひとすじの涙が伝い落ちていった。

 

 

グリム童話

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