シンデレラ

 

 

プロローグ

 

物心ついた頃には孤児院にいた。

周りはみんな汚い子供ばかりで、毎日が食べ物の奪い合いだった。でも「マンマ」はいつでも優しかった。小さい頃は、いつまでもマンマの腕の中で眠っていたかった。

少し大きくなると、マンマのためにできることを探した。孤児院の手伝いの他、外での日雇い仕事、物乞いまで、何でもやった。

生活は苦しかったけど、幸せだった。こんな日々がいつまでも続くと、あの頃は信じていた・・・。

 


 

1.夢と希望

 

父が再婚し、継母と義姉たちが来てから、シンデレラと呼ばれるようになった。それまで呼ばれていた本名の方は、誰も呼ばなくなった。

父は優秀な靴職人だったが、当時の都市ではギルドの締め付けが厳しく、途中で妻帯すると親方にはなれなかった。徒弟から叩き上げて親方を目指す父は、それゆえ母とは長い間結婚できず、娘が生まれても母とは別居していた。ようやく父が親方となり、晴れて結婚した直後に、母は亡くなった。それまでほとんど会ったこともない父と12歳の娘が、突然2人で暮らすことになったのだ。お互いに、ぎくしゃくしてしまうのも無理はなかった。

そんなわけで、娘にあまり愛情が湧かないうちに再婚した父は、継母と義姉による継子・義妹いじめを黙認する形になった。シンデレラの方でも、父には別に何の期待も抱いてはいなかった。だいたい、母が死んで1年も経たないうちに再婚するような父親に、何を期待しろというのだろうか。

継母たちは、シンデレラに粗末な服を着せ、召使のような仕事をやらせた。シンデレラには寝室も与えられなかった。少しでも暖を取ろうと、火が消えても温もりの残る暖炉の前で眠り、朝には灰まみれになっていることから「シンデレラ(灰かぶり)」というあだ名で呼ばれるようになったのだ。

諦めていた。世の中とはこんなものだと思っていた。幼い頃から社会の厳しい一面を見続けてきたから、そう思うのだろう。仕方がないと、頭では理解していたが、それで納得できるほど人の精神は単純な構造をしてはいない。家の中で傍若無人に振舞う継母たちを目の当たりにするたび、彼女らへの侮蔑や怒り、そんな彼女らに媚び(へつら)わなければならない理不尽さ、そしてそんな状況をどうにもできない自分への腹立たしさや虚しさ、諦念など、さまざまな感情が彼女の中で渦巻いていた。

 

 

家の前の路上には、昼間になると物乞いが何人か出てくる。中にはシンデレラと同じくらいの年頃の少年もいた。シンデレラの母親は生前、このような孤児・路上生活者を黙ってみていられない優しい女性だった。母と2人暮らしの頃、母は自宅を孤児院にして多くの子供たちの面倒を見ていた。母の実家は決して経済的に恵まれていたわけではなく、孤児院の財政はいつも火の車だったが、母も内職をたくさんこなしたりして、なんとか切り盛りしていた。大きな子供は日雇い労働もしていた。結婚後も孤児院を続けるつもりでいた母親は、しかし風邪をこじらせて急死し、建物も母親の実家の管財人が売り払ってしまったため、孤児院は閉鎖、孤児たちは散り散りになったが。当時はシンデレラ自身も、孤児院の中のことを色々と手伝っていたので、召使同様な現在の境遇も、実はさほど苦にはならない。

ただし、あの頃は毎日が充実していたが、今はただ惨めなだけだった・・・。

 

 

父と暮らし始めて4年が経ったある朝、父親はいつものように仕事に出かけ、ほどなく継母たちも着飾ってどこかへ遊びに出かけた。見送りに出てきたシンデレラの目の前で、物乞いの少年が近寄ってきた。上の義姉がそれを乱暴に振り払い、少年は道に倒れた。下の義姉はちょっと憐れむような視線を少年に向けたが、そのまま馬車に乗り込んだ。3人を乗せた馬車はそのまま去ったが、少年は無気力な緩慢さで体を起こしただけで、その場に座り込んでいた。立ち上がる気力を失っているようにも見える。

馬蹄の音が聞こえ、シンデレラがはっとそちらに目を向けると、馬車がまっすぐ少年に向かって走ってきた。少年も気づいているようだが、うつろな目を向かってくる馬車に向けるだけで、動こうとはしない。通行人の一人が悲鳴を上げた。

馬車が通過する瞬間、通りの向こう側にいた婦人は目を覆った。しばらくして、最悪の光景を予想しながら、恐る恐る目を開けると、そこには少年の姿はなく、道の端っこに少女と一緒に転がっていた。馬車が衝突する寸前に、シンデレラが少年の腕を掴み、渾身の力で引き寄せたのだ。

ほっとした表情で立ち去る婦人には気づきもせず、起き上がったシンデレラは少年に向かって声を張り上げた。

「なんで逃げないのよ! あなた、もう少しで死ぬところだったのよ。」

少年はその言葉に反応を見せず、呆けたように彼女の顔を見つめている。やばい、打ち所が悪かったかもと、急に心配になったシンデレラは、ややトーンを落として、

「ちょっと大丈夫? 私の言ってることがわかる?」

少年は我に返ったように身じろぎし、慌てて何度も肯くと、俯いてぼそぼそと呟くように言った。

「だって、こんな・・・、親もいないし、物乞いくらいしか・・・。ろくに食えないし、無理に生きてたって・・・」

「なに言ってんの!」

ぴしゃりと怒鳴りつけ、シンデレラは掴み掛からんばかりに顔を寄せてきた。少年は怒られていることも忘れてどぎまぎした。シンデレラはかなりの美形で、眉を吊り上げた怒りの形相には凄絶な美しさが感じられたのだ。心臓が、口から飛び出すかと思うほど激しく脈打つ。

「どんなに苦しくても、どれだけ情けなくても、何をしてでも生き抜くのよ。死んだ方がマシって思っても、とりあえず生きてみなさいよ。物乞いでも、どんなに惨めな生活でも・・・」

ふいに涙が出そうになって、声が詰まる。シンデレラ自身の現在の境遇がオーバーラップする。それを振り払うかのように、声を高める。

「どん底の人生から絶対に抜け出してやるって、死んだつもりで頑張りなさいよ。どんなことをしてでも、ここから這い上がろうと、がむしゃらにあがいてみなさいよ。もしかしたら何とかなるかも知れないじゃないの。でも死んでしまったら、絶対に幸せにはなれないのよ。いい? チャンスは必ずあるのよ。生きてさえいれば。」

堪えていたはずの涙が、いつの間にかとめどなく流れている。我慢できず、彼女は少年を置いて、家に向かって走り出した。「ありがとう」という小さな声が、聞こえたような気がした。

 


 

2.再会

 

1週間ほど経ったある日、シンデレラはパーティー帰りの上の義姉に突然殴られた。シンデレラが繕ったドレスの裾が破れたというのだ。見たところ、どうやら庭を散策でもしていて木の枝に引っ掛け、無理やり引っ張ったようだ。これでは破れない方がおかしい。このがさつな義姉に着せるドレスは、鉄製にでもしなければならないようだ、と心の中では思っても口には出せず、シンデレラはひたすら平謝りするしかなかった。

ところが、この日の義姉はよほど虫の居所が悪かったらしく、シンデレラを家から追い出すと言い出した。パーティーにお目当ての男性でもいたのかも知れない。まあ見た目はともかく、この落ち着きのなさを見たら、ドレス関係なく大抵の男性は引くわな、とか考えていると、シンデレラは夕食も与えられないまま、家から叩き出されてしまった。さすがに理不尽さを感じた下の義姉がとりなそうとしたが、上の義姉は聞く耳を持たなかった。

 

 

真冬でなかっただけマシだったとはいえ、現在より更に寒冷だったヨーロッパの秋の夜に粗末な服で野宿するというのは、相当にきつい。シンデレラは、1週間前に物乞いの少年に向かって自分が言った言葉を思い出し、「負けるものか!」と小さく声に出してみた。

シンデレラは公園に向かった。枯葉でもかき集めて潜り込めば、少しは暖を取れるかも知れない。

公園にたどり着き、一歩入ったところで、突然声をかけられた。

「メアリー?」

シンデレラは思わず立ち止まった。その名は彼女が生まれた時に名づけられたものだった。父が再婚し「シンデレラ」と呼ばれるようになるまで、彼女はその名で呼ばれていた。

彼女は辺りを見回して、声の主を探した。その時ベンチから立ち上がった少年と目が合った。

「あなたは・・・。」

1週間前の、あの少年だった。少年は身振りでシンデレラをベンチに招き、並んで座った。

「あなた、どうして私の本当の名前を知ってるの?」

少年は、やや訝しげに、

「僕は、君のお母さんの孤児院で育ったんだ。覚えていないかい?」

少年の胸元には、ハシバミの枝の意匠を掘り込んだ銅製のペンダントがかかっている。そのペンダントに、シンデレラは見覚えがあった。そのペンダントをつけた男の子は、シンデレラの母をマンマと呼んで、誰よりも慕っていた。彼は彼女より1つ年下で、8歳から外で働き始めていた。名前は・・・

「・・・リロイ?」

少年は、輝くような笑顔を弾けさせ、彼女の手を握った。

「覚えててくれたの? 嬉しい。すごく嬉しいよ!」

「え、本当に? 本当にリロイなの!?」

シンデレラは突然の再会に驚き、呆然としながらも、湧き上がってくる喜びに胸を熱くした。

2人は、互いのその後について語り合った。リロイは孤児院の閉鎖後もしばらく日雇い仕事を続けていたが、小さな体での無理が祟って、ちょっとした不注意から怪我をし、それ以来どこでも雇ってくれなくなったという。今もよく見ると少し足を引きずっている。

シンデレラの境遇を、リロイはまるで我がことのように辛そうな表情で聞いていたが、口に出しては「そうか」と言っただけだった。下手に慰められたりするるより、よほど嬉しかった。

「このペンダント、すっと持ってたのね・・・。」

懐かしそうに、リロイの胸元に光るペンダントを手に取る。15年前、まだ赤ん坊のリロイが孤児院の前に捨てられていたときから、このペンダントは彼の首にかかっていたという。あれから4年、こうして生き残っている人がいた。それだけで、彼女には涙が出るほど嬉しかった。

「うん。何となくこれだけは手放せなくて・・・。でも、これももう売るよ。君が言ったとおり、生き残るためには、なりふり構っていられないからね。」

静かな決意を込めてそう言うリロイの横顔は、以前よりも少し逞しく見えた。

シンデレラのお腹が、空腹を主張しだした。恥ずかしがる彼女にリロイは笑顔を向け、持っていたわずかな食べ物を差し出す。

「もらえないわ。これはリロイが苦労して得た食べ物でしょ。」

「そう、これは僕が自分で得た食べ物だ。だからその使い方は僕の自由なんだ。例えば、目の前でお腹を空かせて震えている女の子に分けてあげるとかね。」

そう言ったリロイの柔らかい笑顔が、シンデレラの内をこみ上げてくる感情への抑制を取り払ってしまった。母が死んで以来、今まで誰からも優しくしてもらったことなどなかった。突然取りすがるようにして、子供のように泣きじゃくる少女を、少年は泣き止むまで優しくその頭をなでていた。

「僕はね、いつか孤児院をやってみたいんだ。マンマの孤児院のような、貧しくても暖かい雰囲気の場所を作りたい。」

泣き疲れてうとうとしだしたシンデレラの耳に、染み込むようなリロイの声が優しく響いていた。

 

 

夜明け前に家に戻ったシンデレラを、継母は玄関で迎えた。

「遅いよ。今までどこをほっつき歩いてたんだい。朝は忙しいんだからね!」

憎まれ口も継母のさり気ない優しさなのかも知れないと感じ取るには、シンデレラはすっかり擦れていた。ろくな衣服や食事、寝室さえも与えないのに、文句も言わずよく働く、いわば安くて優秀な労働力はそうそう得られるものではない。そう簡単に追い出されるわけもないとわかっていたから、彼女は平然と戻ってきたのだった。

 

 

1週間ほどして、リロイの姿はシンデレラの周囲に見られなくなっていた。どこか遠くに行ってしまったのか、それとも・・・。

生きていて欲しい。生きて、夢を叶えて欲しい。いや、とにかく生き抜いていてくれるだけでいい。彼女は、そう願わずにはいられなかった。

 


 

3.母の遺したもの

 

リロイがその話を受けたのは、いわばひとつの賭けだった。ことと次第によっては、殺されてしまう可能性もある。しかし、上手くいけば、シンデレラに語った夢を実現することも難しくはない。

それに・・・。

 

 

2年が経った。この年、以前から素行に問題があるとされていた王太子が廃嫡(はいちゃく)され、失脚していた前王妃の子が新たに王太子に立てられた。1年ほど前、前王妃の子が見つかったという噂が流れたが、どうやら有力貴族たちによる派閥争いの結果、新王子派が勝ったらしい。いずれにせよ、シンデレラには全く関係のない事件であるように、その時は思われた。

新王太子のお披露目のための舞踏会が3晩続けて開かれることとなった。舞踏会は、旧王太子派のテロ等を警戒し、招待状のない者は入れないことになっていたが、シンデレラの家にも招待状が届いた。靴職人の同職ギルドは、一貫して新王太子派を支援していたためであるらしい。

義姉たちは、早くも浮かれていた。どんなドレスがいいかしら、ダンスの練習をしなくちゃ、などと、何となく家の中全体が浮ついている。年頃の娘たちにとっては、玉の輿に乗るチャンスであり、親たちにとっても娘を売り込むチャンスである。彼女たちはシンデレラに準備を手伝わせつつも、常になく落ち着きのない様子だった。何を期待しているのか知らないけど、あんたたちみたいな()き遅れの相手を王子様がするはずがないでしょ、と内心で毒づきながら、一見甲斐甲斐しくシンデレラは彼女たちを手伝っていた。

私も舞踏会に行ってみたい。華やかな雰囲気を味わってみたい。ふと、シンデレラは思ったが、次の瞬間に彼女は淡い希望を自ら打ち消した。義姉たちがわざわざライバルを増やすような真似をするはずがなかった。それ以上何も考えたくないとでもいうように、彼女は仕事に没頭していった。

 

 

舞踏会の初日、継母と義姉たちはいそいそと出かけた。彼女らが上機嫌で馬車に乗り込んだ頃、シンデレラはキッチンにぶちまけられた大量の豆を前に、呆然と立ち尽くしていた。上の義姉がぶちまけたのだ。故意か偶然かはわからない。そんなことはもうどうでもよかった。

彼女は仕方なく、豆を片付け始めた。私だって舞踏会に行きたかったのに、こんなところで床に這いつくばって豆を拾っているなんて・・・。次第に継母や義姉たちに対する恨みが湧いてくる。彼女は慌てて頭を振り、暗い考えを追い出そうとした。それは黒い沈殿物となって心の底に溜まり、やがて自分の心を真っ黒に染めてしまうような気がして、急に怖くなったのだ。

「うわ、何だ、この豆の海は!?」

キッチンの入り口で若い男の声がした。シンデレラは振り向き、驚愕に目を丸くした。

「リロイ! 無事だったのね。よかった・・・。」

彼女は思わず、リロイに駆け寄って抱きついた。

「メアリー、話があるんだけど・・・、君はこれを片付けなくてはいけないのかな?」

彼女は我に返ると、急に気恥ずかしさに顔を紅潮させ、慌ててリロイから身を離した。勢いで抱きついてしまったものの、考えてみれば父親に甘えた記憶すらない彼女は、男性にここまで近づくことすら初めてのことだった。

「あ、そ、そうなの。ちょっと待っててね。すぐ終わるから・・・。」

「手伝うよ。」

変わらぬ穏やかな笑顔を浮かべ、リロイは豆を拾い始めた。

17歳になったリロイは背も伸びて声も低くなり、以前のどこかおどおどした印象が薄れて、堂々としているように見えた。シンデレラは豆拾いに没頭することで、鼓動の乱れを鎮めようと必死だった。なぜ、冷静になるのがこんなに難しいのだろう?

作業をしながら盗み見るようにリロイを見て、シンデレラはやや違和感を覚えた。このときリロイは粗末なマントを羽織っていたが、その下にのぞく衣服は地味だが細かい刺繍が入り、仕立ても上等な高級品に見えた。少なくとも4年前までは物乞いをしていたリロイに似つかわしい服装には思えなかった。

それほど時間もかけずに、豆拾いは終わった。今までこの手の作業はたいてい一人でやらされていたので、共同作業の効率のよさに感動すら覚えた。2人は椅子に座り、リロイがここに至る経緯を話し始めた。

「2年前に再会した、あの1週間くらい後に怪しい男が訪ねてきて、僕はある侯爵の邸に連れて行かれたんだ。」

に始まるリロイの話は、シンデレラに立て続けの驚愕を強いた。その侯爵の言うには、リロイが肌身離さず持っていた銅製のペンダントは亡き前王妃の遺品であり、リロイはどうやら前王妃の遺児らしいというのだ。ペンダントは、人を邪悪なものから守る霊力を持つといわれるハシバミの枝をモチーフにして王が作らせ、前王妃に贈ったものなのだそうだ。前王妃は子を生んですぐに亡くなり、後見人もなく、異母兄弟たちとの後継者争いに巻き込まれる危険にさらされていた赤ん坊は、人知れず孤児院に預けられた。その時に、当時の侍女が赤ん坊に前王妃の唯一の遺品のそのペンダントをかけたのだそうだ。

リロイは、シンデレラと公園で一夜を過ごした翌日にそのペンダントを売り払った。そのペンダントを侯爵が偶然見かけて、売主を探し、物乞いのリロイに行き着いたのだという。シンデレラ、いやメアリーとの再会をきっかけにペンダントを手放したことが、偶然にもリロイに新たな運命を切り開かせることになったのだ。

リロイは1年半ほど侯爵邸に匿われ、貴族としての厳しい教育を受けた。孤児院で育ち、その後、職を転々とした挙句、物乞いになっていたリロイには、教養などあるわけがなかった。リロイの王子教育のかたわら、侯爵は来るべき王太子派との政権闘争に向けて、着々と地盤固めをした。

1年後に、リロイを正式に「前王妃の遺児」として王のもとに出して以降は、元々素行の悪かった王太子の廃嫡(はいちゃく)・リロイの立太子と順調に進み、前王太子派に代わって侯爵が宮廷内での発言力を強めるに至った。

 

 

そこまで聞くと、シンデレラはあることに気づいた。

「リロイ、今夜はあなたのお披露目の舞踏会でしょ。こんなところで油を売っててもいいの?」

「本当はまずいのかもしれないけど、侯爵が何とかごまかしてくれるだろうさ。僕はその舞踏会に、君を誘いに来たんだ。メアリー、舞踏会に出てみないかい?」

シンデレラは頭の中が真っ白になった。舞踏会に出る? そんなことが現実にできるとは、とても思えなかった。

「ダ、ダメよ。だいいち、私、招待状も持っていないもの。」

「僕を誰だと思っているんだい? 招待状ならば、僕がいつでも用意できるんだよ。」

「え・・・、で、でも私、ドレスとか持ってないし・・・。」

消え入るように言いながら、上目遣いにリロイを見ると、リロイがまさに快心の笑みを閃かせたところだった。リロイはシンデレラの手を取り、庭先へと(いざな)う。そこには2頭立ての立派な馬車があり、数人の若者がいた。1人は純白の絹のドレスを、1人は大粒の真珠のネックレスを、もう1人は美しく刺繍された革靴を捧げ持っていた。

「侯爵が調べてくれたんだけど、君のお母さんの孤児院にいた子供たちのうち何人かは自力で成功していたんだ。仕立て屋、宮廷御用達の馬車製作職人、靴職人、遠隔地商業で財を成した者もいる。彼らは皆、マンマに、君のお母さんにとても感謝していて、是非、君の力になりたいと言ってくれたんだ。みんな、君のものだよ。」

シンデレラは、信じられない、という顔を若者たちに、次いでリロイに向けた。父の再婚以来、誰かが自分のために何かをしてくれるということはついぞなかった。ところが、昔の母の孤児院の人たちがこうして何人も生きていて、彼らが自分に手を差し伸べてくれている。こんなに嬉しいことが、本当に起こり得るものなのだろうか。

「もちろん、野垂れ死にした人たちも、たくさんいたはずだけどね。でも彼らの気持ちも、僕たちと同じなんじゃないかな。実際僕も野垂れ死に寸前までいっちゃってたから、なんとなくわかるんだよ。みんなのそういう気持ち、受け取ってくれないかな?」

感極まった。涙が溢れてきた。

「ありがとう、リロイ。ありがとう、みんな。本当にありがとう。生き残れてよかったね。でも私は行けない。だってダンスも踊れないんだもの。」

涙を拭きつつ、それでもシンデレラは笑った。

「わかった。じゃあ今日はダンスレッスンだな。待たせたなバート、君の出番だ。」

「いつまで待たせるんだよ。了解、それじゃ、お姫様は俺が預かるから、王子様はさっさと美女と政争の坩堝に()っちまいな。」

若者たちの間から出てきたのは、リロイと同年配の青年だった。その顔にシンデレラは見覚えがある。彼女より1つ年上で、孤児院では2つ年下のリロイといつも一緒に、遊んだり仕事にでかけたりした。バートは、何事につけ要領のいい少年だった。孤児院を出てからも、貴族向けのダンス教師のところに下働きに入って、いつの間にか「門前の小僧」よろしくダンスを覚えてしまい、現在ではダンス教師の助手のようなことまでやっているらしい。

バートは、今夜つきっきりでダンスを教えてくれるようだ。もちろん上流社会の嗜みやマナーなどにも詳しいはずで、シンデレラにとっては大変心強い存在になるだろう。

「・・・メアリーにヘンなことをするなよ。」

「わかってるって。なに焦ってるんだよ。」

遠目には話の内容までは聞き取れなかったが、バートがリロイをからかうような、気の置けない2人のやり取りを、シンデレラはやや羨ましく眺めていた。

 


 

4.舞踏会1・告白

 

翌日、シンデレラは継母たちを舞踏会に送り出すと、早速準備を始めた。隠していたドレス・アクセサリー・革靴・メイク道具などを取り出す(シンデレラは家事一切を引き受けていたので、家の構造には誰よりも詳しく、隠し場所の2、3箇所くらいは、すぐに用意できた)。

ほどなく、若い女性が2人入ってきて、シンデレラの着替えとヘアメイクを手伝った。彼女たちはやはり孤児院出身で、今回協力を申し出ていた。2人とも、貴族の邸でメイドをしていた。

準備ができ、玄関を出ると2頭立ての馬車が待っていた。中からエスコート役のバートが出てきて、彼女を馬車の中へと招じ入れる。2人が乗り込むと、馬車が動き始めた。馬車の中でバートは、上流階級のパーティーにおける心構えを説明していた。緊張の面持ちで説明を聞くシンデレラを見て、バートはふっと笑った。

「最後に、もっと柔らかく笑った方がいい。その方がずっと魅力的だし、継母たちにもバレにくいだろう。もっとも、それだけバッチリとメイクしていれば、大丈夫だとは思うけどね。」

そうなのだ。もし継母たちにバレたら、あとでどんな目に合わされるかわからない。演技力を総動員して、全く別人のお姫様にならなくてはいけない。

「今夜の君は、いつもの灰かぶりではない。君はお姫様になって、王子様とダンスを踊るんだ。今から、君は変身する。」

バートが耳元で呪文のように繰り返す。シンデレラは目を閉じ、彼の言葉に身を委ねた。

 

 

舞踏会場に、新たな招待客の到着が、声高らかに告げられた。

「メアリー・オーキッド嬢、ご到着なさいました。」

オーキッドはシンデレラの母の旧姓である。彼女の父親がこの場にいれば、客の正体に気づいただろうが、この日、父は靴職人ギルドの会合で400マイル離れた町に出かけていて、あと2週間は帰ってこない。継母も義姉も「メアリー・オーキッド」の正体には、もちろん気づかなかった。

彼女がホールに歩み入ると、誰もがその美しさに息を呑んだ。純白の絹のドレスに刺繍入りの靴、アクセサリーは真珠のネックレスとわずかなシルバーの髪飾りのみ。ナチュラルメイクの(おもて)にたたえられた、柔らかな微笑み。ゴテゴテと飾り付けられたドレスや、五月蠅いほどのアクセサリー、けばけばしいメイクや、奇抜すぎる髪型で少しでも目立ち、王子の心を射止めようとする女性たちの群れの中で、彼女の清楚な装いは、かえって新鮮な魅力を放っていた。暗く澱んだ沼に、一羽の白鳥が舞い降りたような(おもむき)すらある。

エスコート役を終えたバートが、その様子を後ろから眺めて、賞賛の口笛を吹き鳴らした。周囲の女性たちがバートのまわりに集まってきた。彼がエスコートしてきた女性はどこの令嬢なのか、バートに確かめるためだろう。王子の心を射止めようと集った令嬢たちにとって、強力なライバルの出現と映ったようだ。

 

 

王子、すなわちリロイがまっすぐにシンデレラに近づき、ダンスを申し込む。彼女はそれを鷹揚に受ける。彼女の美しさを充分に知っていたはずのリロイですら、見事に変身した彼女にすっかり魅了され、やや声が上ずっている。

一方のリロイも、今日は王子としての盛装で堂々とした振る舞いを披露しており、昨日の倍ほども凛々しかった。きっとリロイが登場した時には、姫君方の溜息が、会場中に充満したはずだと思いながら、シンデレラはやや呼吸や鼓動の乱れを感じた。慣れないコルセットのせいだろうと、強いて自分に言い聞かせた。

会場中の男女は、2人のダンスにしばし見とれた。シンデレラのダンスは、何しろ一夜漬けなのでそれほど上手いわけではない。しかし、ただでさえ美男美女であるし、それに2人の間に流れる空気のようなもの――それは「信頼」に近いかも知れない――が、彼らのダンスをより美しく見せていた。

この時間帯の音楽は、アルマンドとサラバンドという、ゆったりとしたテンポの舞曲を交代で演奏させていた。ガヴォットやジーグのように速いテンポの舞曲は、初心者のシンデレラにはまだ無理と判断したのだった。

シンデレラがずっとリロイと一緒にいることには、相応の理由があった。ダンスや宮廷マナーの初心者たるシンデレラは、あまり色々な人と対するわけにはいかなかった。彼女が初心者であることを知るリロイがフォローして、初めて彼女はこの舞踏会に相応しい貴婦人に見えるのだった。しかし、他の人々の目には、王太子が彼女を気に入り、独占しているようにしか見えなかった。皆は、彼女こそが次期王妃になるだろうと噂し、彼女の様子を窺っていた。

ダンスとダンスの合間に、シンデレラは大胆にも継母や義姉に近づいた。最初から予想外に注目されてしまったので、どちらにせよ彼女らには見られているはずである。避けるよりもむしろ堂々と接触した方がリスクが少ないのではないか、と考えたのだ。

「初めまして。オレンジはいかが?」

「初めまして、お美しい姫君。王子様とのダンスは素晴らしかったですわ。」

「まあ、ありがとうございます。光栄ですわ。」

継母たちは、この笑顔の美しい姫君が、いつも家で汚れた粗末な服を着て灰にまみれ、笑顔を見たこともない娘と同一人物であるなどとは夢にも思わなかった。その様子をシンデレラに密かに(わら)われているとも知らずに・・・。

 

 

間もなく日付が変わろうかという頃、今まで楽しげな様子だったシンデレラが、突然何かに気づいたように顔色を変えた。

「もうそろそろ、帰らないといけないわ。」

そうなのだ。継母たちは彼女が家で留守番をしているものと思っている。彼女たちより早く帰宅して、元の「灰かぶり」に戻っておかなくてはならない。

「じゃあ、2人でちょっと話そうか。」

そう言うと、リロイはシンデレラをバルコニーへと(いざな)った。リロイはしばらく黙ったまま、緊張した面持ちでやや視線を逸らしていたが、何かを決心したように、視線を彼女の方へ向けた。

「メアリー、僕の夢のことは、前に話したよね。」

「ええ、聞いたわ。孤児院を作るんでしょ。今のあなただったら、充分に可能な夢よね。」

「ああ。でも今の僕には、孤児院にまで関わる余裕はない。王太子としての仕事もあるし、まだまだ勉強しなきゃならないこともいっぱいある。難しいものだね。」

もしリロイが、ただの金持ちの隠し子とかだったら、あるいは太子以外の一般の王子だったら、むしろ彼の夢を叶えるのは簡単だっただろう。だが、王太子という特別な立場が、それを難しくしている、というのが目下の皮肉な現実だった。

「それでも、僕は夢を諦めてはいない。いつかきっと、孤児院を建て、僕自身が子供たちの世話をできなくても、何らかの形で孤児たちに関わっていきたいんだ。だから、そのために・・・」

「・・・そのために?」

突然、言い淀んだリロイに、シンデレラは不審の視線を向けた。彼は今、己の心の弱さと戦っていた。飢えていた時の物乞いよりも必死に、王子として宮廷の政争へ飛び込む決心をした時以上の勇気を、今、必要としていた。そしてついに、彼は決心した。傍らの少女に向き直った時、泳いでいた視線が定まり、口元は真一文字に弾き結ばれていた。やがてその口が開く。

「メアリー、僕と一緒に、僕のそばで、僕の妻として、僕の夢を手伝ってくれないか。」

言われたシンデレラは、一瞬何を言われたのかわからず、ぽかんとしたが、数秒の間に徐々に彼の意図を理解し、その理解度と比例するように、彼女の心に動揺が広がりつつあった。

「僕は孤児院にいた頃から、ずっと君が好きだった。2年前に再会したときも、王太子として高貴な身分の人と接するようになった今も、それは変わらない。メアリー、僕と結婚してくれないか。」

一瞬の空白。そして彼女の混乱は極限に達した。リロイが自分を好き? 結婚? そんなこと、今まで考えたこともなかった。彼女の頭は一気に飽和状態となった。

その場にへたり込みそうになったところを、リロイが慌てて抱き起こす。リロイの顔を至近に見た彼女はますます混乱し、顔を紅潮させて、リロイを突き飛ばすように身体を離した。

「ちょ、ちょっと待って。あの、今すごく混乱してて・・・。その、嬉しいんだけど・・・。少し考えさせてくれる?」

目を泳がせ、頭を抱えるようにして、やっとそれだけを言ったシンデレラに対し、リロイは溜息交じりの苦笑で応じた。彼の方は、言うべきことを言ってしまったので、ほっとして、やや余裕が出てきたようだ。

「わかった。じゃあ明日の夜、舞踏会の最終日に、ここで待ってる。その時に返事をもらえるかな?」

シンデレラは、ほとんど「挙動不審」といってよいほどのうろたえぶりを見せつつ、ほうほうの態で舞踏会場を逃げ出した。

 


 

5.幕間

 

「そうか、あの小心者も言うべきことは言えたようだな。上出来、上出来。」

帰りの馬車の中で、シンデレラはバートにリロイのプロポーズについて話すと、揶揄するような返答が返ってきた。どうやら彼は、以前からリロイの気持ちに気づいていたようだ。シンデレラは、いささか深刻に考え込んでしまう。

「あたしって、よっぽど鈍いのかしら・・・?」

「あ?、そりゃ誰だって自分が絡んだ恋愛には、あんまり鋭くはないだろ。そもそも、あんた自身、ヤツをどう思ってるんだ?」

「え、あたし・・・?」

思いがけない方角からの攻撃に、シンデレラはまた動転したように、目を泳がせ始めた。

「そう、それが定まっていないと、ヤツの申し出を受けるかどうか、答えようがないだろうが。ま、王太子の妃になるってことになれば、それ以外にも問題はあるだろうが、とりあえず、あんたの気持ちが第一だろ?」

シンデレラは、泣きそうな顔で、縋るような目をバートに向けた。実際、泣きそうな気分だ。リロイのプロポーズに対する混乱も完全には収まらないうちに、新たな(実はそうでもないのだが)問題が出てきて、彼女にとっては許容量をとっくに超えてしまっている。だいたい今日は、普段とは違う自分に変身するべく、一夜漬けで色々な知識を詰め込んで、ただでさえ極度の緊張状態だったのだ。いつもほど頭が回らなくても、仕方がないというものだろう。

「おいおい、そんな、男を誘っているような目を、俺に向けてどうするよ。まったく、これだから恋もしたことないお嬢ちゃんは・・・。リロイに釘を刺されていなけりゃ、このまま押し倒してるところだぜ。」

こちらの緊張をほぐすためか、おどけた調子で言ったあとで、バートはやや口調を改めた。

「今までの、お前さんの見たヤツの言動を思い返してみな。『王子様』の肩書きを外して、あんたにとって、リロイはどういう存在なのか、そこから考えてみるんだ。」

シンデレラは、バートに言われるままにリロイのことをあれこれ考えてみる。ただ彼女の母を慕い、母のために一所懸命に働いてくれた孤児院時代。2年前、生への執着さえも失いかけた彼に再会したとき「放っておけない」と思ったこと。そして昨日の再会・・・。

「少年」から「男」に変貌した彼に再会した、あの時のドキドキ感は一体何だったのだろうか。今夜の、まさに「王子様」な彼と一緒にいる時の、夢見心地な気分は。そんな彼の仕草や話し方に、そして豆拾いを気楽に手伝ってくれた、変わっていない昔の「リロイ」の部分を発見した時の、あのたまらなく嬉しい気持ちは・・・。

「なんだ、好きだったんじゃん・・・。」

気づくと、涙が静かに流れていた。今までわだかまっていた色々なものを、ゆっくりと押し流していくようだった。

黙って見守っていたバートは、一瞬切なげな表情を垣間見せたが、すぐに目を逸らして、彼女の頭をぽん、と軽く叩いた。

「まったく、どいつもこいつも、世話かけさせやがって・・・。」

口に出して言ったのは、それだけだった。

 

 

家に帰ると、シンデレラは大急ぎで着替え、メイクを落とし、髪を灰で汚した。いつもの「灰かぶり」に戻った彼女に、先ほどまでの「お姫様」の面影はなかった。

その後、帰宅した継母たちの様子は、みごとに明暗が分かれていた。継母はいつになく楽しそうで、着替えを手伝うシンデレラに上機嫌で舞踏会の様子を語った。いつもの「羨ましいだろう」という皮肉な響きも、今夜は見られない。対照的に、義姉たちは見るからに不機嫌な様子で、押し黙っていた。

「今夜は、純白のドレスの清楚な姫君が現れたんだよ。なんともいえない繊細な雰囲気がよかったね。時折サーコートからのぞく靴の細やかな刺繍がまた見事でね。王子様も、すっかりあの姫君に魅了されちゃって。でも、決してお高くとまってないで、私らみたいなのに気さくに話しかけてきてくれたよ。」

どうやら、正体はバレていないらしい。とりあえず、シンデレラはほっとしたが、何故、継母だけが上機嫌なのかがわからない。着替えを手伝いながら、シンデレラはさりげなく探りを入れてみる。

「でも、お義姉さま方の方が魅力的なのではないのですか?」

「あんな素敵な姫君、うちの娘どもが敵うわけがないよ。でも彼女は今夜、王子様以外では私たちとだけ話をしてた。うまく彼女と仲良くなっておけば、ゆくゆくは王妃様のお友達として、宮廷に出入りできるようになれるかも知れないよ。」

愕然とするあまり、シンデレラは危うく、外した手袋を取り落とすところだった。転んでもただ起きない継母は、謎の姫君に取り入って甘い汁を吸おうと企んでいたのだ。初対面で正体がバレなければ心配ないと、タカをくくっていたのだが、今後も接近してこようとするなら、正体がバレる危険性が増大することになる。今まで散々世話をしてきた恩(シンデレラに言わせれば「言いがかり」以外の何ものでもないが)をかさにきて、様々な要求をしてくる、いやむしろ、それをネタにゆすりをかけてくるだろう。

リロイへの想いを自覚し、結婚へ傾斜しかけていた気持ちが揺らぐ。下手をすれば、王室にまで迷惑を及ぼすことにもなりかねない。

 

 

皆が寝静まった頃、シンデレラは暖炉の前で毛布にくるまって、座り込んでいた。暗がりの中で、暖炉の灰を睨みつける両眼が、不気味に光っている。

どれくらい経っただろうか。それまで微動だにしなかった彼女が、突然立ち上がると、足早に歩き去った。間もなくどこからか、ランプと舞踏会で履いた靴を手に戻ってきた。

一般に、『シンデレラ』といえば「ガラスの靴」だが、元々は「(リスの)皮の靴」だったのを童話作家のC.ペロー(16281703)が土地の古老から民話を採集する際に、聞き間違えて記述したことが発端ではないかといわれている。フランス語では、リスの毛皮(vair)をガラス(verre)が同じ発音だったことが原因であろう。

シンデレラは暖炉の前に胡坐をかくと、左足の靴を手にとって、ランプの光を頼りに、一心不乱になにやら作業をしていた。

 


 

6.舞踏会2・転機

 

舞踏会最終日。出席者全員の注目の中、会場に現れた「メアリー・オーキッド」嬢は、前日とはうって変わって、華やかな装いだった。淡紅色のドレスに、色とりどりのレースで作った花をあしらい、胸元には大粒のルビーが輝いている。足元の靴は昨夜と同じ、細かい刺繍入りの革靴である。実は、スタッフはドレスに合わせた別の靴を持ってきたのだが、シンデレラが強硬に昨夜と同じ靴に拘ったのだ。メイクも、前日の柔らかなナチュラルメイクよりも、やや目元・口元を強調して、ドレスの主張に負けないようにした。しかし、華やかとはいっても、他の令嬢方のようなけばけばしさは微塵もなく、品の良さと清楚さを、むしろ際立たせていた。

シンデレラは、この日も皆の注目を独占した。前日に一度出席して自信をつけたのか、堂々とした態度は風格すら漂わせていた。マナーなども、バートの目から見ても、非の打ち所がなかった。

 

 

リロイが近づき、ダンスを申し込む。この日のシンデレラは落ち着いており、リロイや周囲の様子を観察する余裕があった。

今回の舞踏会は、そもそも王太子のお披露目が目的であり、周囲の貴族、聖職者、富裕市民などからは、リロイへの容赦ない品定めの視線やひそひそ話が集中する。そもそも1年前の政変以後、リロイは公の場への露出が少なく(侯爵のもとで教育を受けていたため)、彼らにとっては新王太子をじっくりと観察できる、ほとんど初めての機会だった。

そんな中、リロイの立ち居振る舞いは、とても堂々として見えた。内心ではさぞストレスを感じているだろう。その上、前夜にシンデレラへのプロポーズを保留にしたため、更にストレスの元を増やしてしまった。恐怖感に押し潰されそうなのを、必死で(こら)えているのではないか。本音を言えば、今すぐこの場から逃げ出したい気持ちでいるかも知れない。それでも、彼は自分のそんな弱気を、必死さを、意地でも見せようとはしない。

そんなリロイを、シンデレラは微笑をもって見つめる。昔のリロイを知る彼女には、彼がこのような状況でも微動だにしないほど図太い神経を持っているわけでは決してないことが、よくわかっている。それでも、必死で突っ張り通すリロイを可愛いと、彼女は思う。彼を支えてあげたいとも思う。

 

 

シンデレラの、やけに落ち着き払った様子に、次第にリロイの方が落ち着かなげな様子になってきた。前夜の彼のプロポーズを、彼女はどう思っているのだろうか、ということが、今更ながら気になってきた。彼女からの返事を欲していたはずのリロイは、今夜中に返事をもらわなければならないことに、逆に緊張してきた。

リロイは、とうとう決心したというように、昨夜のバルコニーにシンデレラを連れ出すと、こわばった顔をやや下に向けて、切り出した。

「メアリー、その・・・、例の話・・・。昨夜の返事を、聞かせて欲しいんだけど・・・。」

それまで必死に張り続けてきた虚勢が剥がれ落ち、繊細で優しい、物慣れぬ少年の素顔が(あらわ)になっている。シンデレラは、僅かな時間、その生地の妙味を味わうように見つめていたが、やがて口を開いた。

「ありがとうリロイ。私もあなたが好き。あなたが好きよ。今まで、あなたの気持ちにも気づけず、ごめんなさい。それどころか、昨夜あなたにプロポーズされるまで、私自身の気持ちにさえ、気づかなかったの。こんな私でよかったら、結婚して下さい。」

大輪の花が咲いたように、喜色を満面に広げたリロイが、言葉を発しようとするのを手で制止した。

「でもね、私があなたと結婚するということは、そんなに簡単なことではないの。この舞踏会の場で、あなたが私を『この令嬢を王太子妃とする』と言っても、どこの馬の骨とも知れない正体不明の女が王太子を(たぶら)かしたようにしか見えない。だからといって、私の出自を公表なんてしたら、継母や義姉たちが、今日までの私の境遇を振りかざして、未来の王妃に私は相応しくないと騒ぎ立てるかも知れないし、王室を脅すかも知れない。だから・・・。」

そこで、シンデレラは(おもむろ)に左足の靴を脱いで、手に取った。

「明日、この靴を持って私の家に来て、この靴がぴったりと合う娘を妃に迎えると言って。王太子が、私の現在の境遇を承知の上で、私を妃に迎えるということを、先手を打って宣言する必要があるのよ。」

そう言い捨てると、彼女は手にした靴をリロイの胸元に押し付けるようにし、そのまま走り去った。

 

取り残されたリロイは、呆然と彼女を見送ったあと、彼女の残した靴を見直した。リスの皮で作られた、上等な仕立ての靴に、細かい刺繍がびっしりとその表面を埋めている。靴底は真っ平で、低いヒールすらついていない。ちなみに、ハイヒールがヨーロッパに登場するのは16世紀のイタリアで、それ以前には真っ平な靴底しかなかった。古代ギリシアで、ペロポンネソス戦争の頃に最初のハイヒール(中に詰め物をした靴)が登場したものの、その後姿を消し、ハイヒールはアラブ世界に受け継がれ、16世紀にイスラムから逆輸入された。1570年代にはフィレンツェで「イスラム風ハイヒール」が流行し、以来ヨーロッパ中に広まったとされている。

ふと、靴の中を見ると、リロイの目は驚愕に大きく見開かれた。

 

修羅の道を歩もうとしている・・・。

片足裸足で駆けながら、シンデレラの心は静かだった。召使同然の境遇から一転、未来の王妃へという、浮き立つような高揚感はない。むしろ彼女の気持ちは、深淵に沈んでいくような、冷たい静けさと暗さを帯びていた。

自分がこれからやろうとしていることは、人としては間違っているのだろう。義理とはいえ、母や姉たちを騙し、裏切るのだ。結局、好きな男のために家族を切り捨てることを選んでしまった。

それでも、彼女の心の中で、後ろめたさは次第にその領域を狭めていった。一度選んでしまった道を引き返すこともできなかったし、宣言どおりに、惨めな生活から抜け出して見せたリロイの手前、ここで逡巡するわけにもいかない。

今度は、自分が「どんなことをしてでも」抜け出す番だった。

 


 

7.奇跡、あるいは謀略

 

3日間にわたった舞踏会が終わった翌朝、町中が祭の余韻のけだるさを満喫している中、シンデレラの家だけは、家中をひっくり返したような(あわただ)しさの中に埋没していた。

この日の早朝、王宮から使者が来て、昼頃に王太子がこの家を訪問すると告げたのだ。家中の大掃除、カーテンやテーブルクロスの新調、王太子をもてなすためのワインや軽食の準備等々。この日ばかりは、シンデレラだけではなく継母や義姉たち、それに近所の女手も借りて、皆忙しく立ち働いていた。

「ただいま帰りました。」

「遅いよ。いったいどこほっつき歩いていたんだい!」

食材の買い出しに出かけていたシンデレラが、やや遅れて帰宅すると、神経質になっている継母に怒鳴られ、平手打ちを受けた。

「申し訳ありません。」

「ほら、まだまだ仕事は山ほどあるんだよ。さっさと掃除のチェックを済ませて、調理にとりかかっておくれ。」

義姉たちも、今日はシンデレラに皮肉を浴びせる余裕もないようだった。それどころか、慣れない家事仕事をするために、シンデレラの指図を仰がねばならず、屈辱感を押し隠すのがやっとのようだった。シンデレラはその様子を見て溜飲を下げ、かえって優しい言葉をかけさえした。どうせこの力関係も、今日で最後なのだから・・・。

 

 

日が中天にさしかかろうとする頃、多くの従者や護衛兵を引き連れた王太子が、シンデレラの家に到着した。馬車を降りた王太子は早速家に入り、シンデレラの継母の丁重な挨拶を受けた。父親はまだ出張から戻っていなかった。

「本日は、このようなあばら家に、わざわざご下向頂きまして、恐悦至極に・・・」

「堅苦しい儀礼は無用だ。早速本題に入るとしよう。この靴だが・・・」

王太子の目配せに従い、赤い布に包まれた箱を捧げもった従者が、王太子の傍らから進み出た。従者は丁寧に布を外し、箱をあけると、その中身を、別の従者が用意した台の上に置く。それに見覚えのあった継母が息を呑む。それは、前夜の舞踏会で「メアリー・オーキッド嬢」が履いていたはずの、細かい刺繍の入った革靴だった。

勧められた椅子に腰を下ろすと、王太子は両手を組み、静かに話し出した。

「一昨日、及び昨日の舞踏会において、私はある女性とダンスを踊った。その女性は実に魅力的な人で、私は是非、その女性を妃に迎えたいと思っている。ところがその女性は自分のことを何一つ語らず、残された手がかりはこの靴ただひとつ。」

王太子の話を聞くうちに、継母の顔が興奮のために徐々に紅潮してきた。その様子に、ちらりと目をやると、王太子は言を継いだ。

「そこで私は、この靴がピッタリと合う女性を舞踏会の女性とみなし、その女性を妃に迎えようと思う。まず最初に、この家の娘に試していただきたいのだが・・・。」

現代社会とは違い、中世ヨーロッパにおいては紙に書いた文書よりも、口から発せられた言葉が重要視された。契約などでも、「契約書」などの書類よりも、責任者がその場において口頭で「宣言」することが、より信用された。

だから、この時王太子が「宣言」したことは、現代人が考える以上に重要な意味を持つ。王太子は、たとえ舞踏会で彼とダンスを踊った女性でなくとも、この靴がピッタリと合う足を持つ女性ならば、妃に迎えると「宣言」したことになるのだ。

この事態に、継母はすっかり舞い上がってしまった。この靴に足がピッタリと合いさえすれば、一度は諦めた自分の娘たちにも、再びチャンスが巡ってくるかも知れない。彼女は早速、2人の娘を呼んでくるよう、シンデレラに言いつけた。

 

 

連れてこられた義姉たちは、緊張の面持ちで王太子に挨拶をしたが、母親の説明を受けると興奮を隠し切れなかった。早速上の義姉が靴に足を差し入れてみる。

ところが、靴の中ほどに障壁のようなものがあって、それ以上足が入らない。焦った義姉は、なんとかして足をねじ込もうと、足の指を折りたたむようにしたが、それでも入る気配は見えなかった。

シンデレラは継母に耳打ちした。

「靴が小さすぎて、足が入らないようです。とにかく靴の中に足が入ってしまいさえすれば、お義母さまもお義姉さまたちも、今後いくらでも贅沢な暮らしができるのです。この際、足の指や(かかと)を切り落としてしまっても、王太子妃の地位を手に入れるべきです。」

まさに悪魔のささやきである。彼女の言葉は、既に頭の中を野心で充たした状態の継母の心に、すんなりと入り込んだ。

継母は、靴と悪戦苦闘を繰り返す娘を呼び返した。既に狂気を孕んだ母親の目を見て、義姉は嫌な予感を感じた。

「足が靴に入らないんだったら、足の親指を切り落としてしまいなさい。お妃になってしまえば、もう自分の足で歩く必要もないのだからね。」

義姉の顔は恐怖に引きつった。母親の言葉が本気であることは、その目からも口調からも、嫌でもわかる。継母はシンデレラに、(なた)を持ってくるよう命じ、泣き叫ぶ娘を引きずるようにして別室に連れ込んだ。やがてシンデレラが鉈を手に別室に入ると、異様な叫び声が響き渡った。

しばらくして、別室から義姉が現れた。顔は青ざめ、目はうつろで、義妹に肩を支えられながら、王太子の前に戻ってきた。

義姉が、足先を王太子に見せないように注意して左足を靴に差し入れると、すっぽりと収まったので、継母は狂喜した。

「歩いてみよ。」

という王太子の言葉に従い、義姉は2、3歩あるいてみたが、あまりの痛みにその場にうずくまってしまった。

「どうした。足が痛いのか。靴を脱いで、見せてみよ。」

義姉が、痛みと悔しさに顔を歪めながら靴を脱ぐと、足の親指が切り落とされており、傷口からは赤黒い血がとめどなく流れ出していた。

「この娘は本物ではないようだ。靴に足が入らないので、親指を切り落としたのだろう。」

継母が慌てて進み出た。

「お待ち下さい。先ほど王太子殿下は『この靴がピッタリと合う娘を妃にする』と仰いました。である以上『本物』である必要はなく、靴が合えばいいのではありませんか?」

「何を言うか。私は『ピッタリと合う娘』と言ったのだ。合わないからといって、指を切ってまで合わせていたら、誰でもよいことになるではないか。この娘は無効だ。」

王太子が憤然として言うと、継母としても引き下がらざるを得なかった。彼女の腹立ち紛れの視線が、下の義姉に向いた。下の義姉は、まるでナイフを心臓に突きつけられたように(すく)み上がり、怯えた顔をブルブルと横に振った。

「ダメよ。私の足は姉さんのより大きいのよ!」

しかし、もはや「なんとしても娘を玉の輿に!」という執念しか眼中にない継母に、彼女の言葉は届かなかった。

「入らなければ、今度は踵を切り落とせばいいでしょう。王太子には、爪先の方を向けていれば、わからないわよ。」

「あたしは別に、お妃様になんてならなくても、ただ平穏に暮らせればいいのに・・・。」

涙ながらの抵抗も虚しく、母親と義妹に両脇から抱えられて別室に連行された。再び絹を裂くような絶叫が聞こえ、下の義姉はシンデレラに背負われるような格好で姿を現した。

王太子の従者たちは、顔は真っ青で、身体は小刻みに震えている。彼らはまさか、今日このような阿鼻叫喚の光景を目の当たりにするとは思いもしなかったであろう。明らかに吐き気をこらえている様子の者もいた。

踵を切った左足は靴に収まったが、間もなく靴の中から鮮血が溢れ出してきた。靴を脱がせてみると、彼女の左足は踵を(えぐ)るように切り取られ、真っ赤な肉の中に白い骨が見えていた。従者の一人が、こらえきれずに吐き出した。

「今度は踵を切り落としたか。妃の地位欲しさにそこまでするとは、なんと浅ましい娘たちだ。この家には、他に娘はいないのか。その女はここの娘ではないのか。」

シンデレラを指差す王太子に、継母は大慌てで申し上げる。

「いえ、この者は確かにこの家の娘ですが、このように汚い身なりをして、卑しい生活をしており、愛想もない娘でして、この者が王太子殿下の想い人でなど、あるはずがありません。」

「その判断は私がする。そもそも私が提示した条件は、先ほどそなたも申した通り『この靴がピッタリと合う娘』だ。この女がこの家の娘ならば、靴を試させるべきだろう。」

継母は、忌々しそうな視線をシンデレラに向け、ついと視線を逸らした。王太子に促され、シンデレラが進み出た。

シンデレラの足の大きさは、さきの2人の義姉の足と大差ないように見えた。ところが彼女の左足は、靴の中にピッタリと収まった。周囲はどよめいた。一体、どういうことなのか。

実は、この靴の中ほどに壁が仕込まれていたのだが、手前に僅かに垂れている糸を引くと、この壁が手前に倒れる仕掛けが施されていたのだ。シンデレラは足の指で器用にこの糸を引き、手前に倒れた壁の上に爪先を滑り込ませるようにして靴を履いたのだ。一昨日の深夜、彼女自身がランプの灯を頼りに作った仕掛けである。元々は彼女の足に合わせて作られた靴であり、サイズがピッタリだったことは、言うまでもない。

しかし納得できないのは継母である。ほとんど同じような大きさの足を持つ義姉たちが履けず、シンデレラだけがなぜ易々(やすやす)と靴を履けるのか。何か秘密があるに違いない。

「ちょっと、その靴を見せておくれ。」

王太子たちが止める間もなく、継母がシンデレラに掴みかかった。シンデレラは仕掛けのある靴を奪われまいとし、誤ったふりをして、靴を炎燃え盛る暖炉に放り込んでしまった。

靴の秘密を暴き損ねた継母は悔しさに歯噛みしたが、気を取り直して再反撃を試みた。

「まあ、不幸な事故によって、この娘が条件に合う娘であるという証拠がなくなってしまいましたわね。」

窮地に追い詰められた感のシンデレラは、しかし少しも慌てず、逆に微笑みを浮かべた。その笑顔に、継母たちは一瞬、背筋の凍る思いを味わった。初めて見るはずの、彼女のその表情に、彼女たちは見覚えがあったのだ。

「お義母さま、甘いですわ。靴は2つで1対なんですのよ。靴に左足がピッタリと合うこと以上に決定的な証拠が、ここに!」

言いながら、シンデレラがポケットから取り出した物を見て、全員が息を呑む。それは間違いなく、先ほどの靴と対を成す、右足用の靴だった。

王太子は立ち上がり、シンデレラの手を取って接吻して、結婚を申し入れた。

下の義姉が、大怪我を負った左足を引き摺りながら、歩み寄ってきた。家族の中ではシンデレラに同情的だった彼女は、義妹の今まで隠されてきた怨念の深さに、少なからずショックを受けたようだった。

「ごめんなさい、シンデレラ。貴女の悲しみがそこまでだとは、気づかなかったの。許してくれなんて、とても言えないけど、せめてこれからは、幸せになって頂戴。」

シンデレラはそれには答えず、先刻までの彼女の家族に冷酷な一瞥をくれると、王太子の用意した馬車に乗り込み、立ち去った。

 

 

王宮へ向かう馬車のなかで、王太子・リロイは1人、厳しい表情で考え込んでいた。あの靴の仕掛けを見た時に、シンデレラが家族への復讐を企てていることを察知していたリロイは、彼女の意図に沿った形で演技をした。2年前から彼女の境遇に同情心を抱いていた彼の意思にも、それは適っていた。

しかし、リロイが今日見た光景は、彼の心を冷えさせた。玉の輿に対する異常なほどの執着心、欲望のために身内をも傷つける残酷さ。そして、それらすべてを演出した者の恐ろしさ。数年にわたって蓄積され、発酵し、異様な臭気すら放ち始めた怨念。

ふいにリロイは悪寒を覚えて身震いした。

 


 

8.結婚式の日

 

10日後、今日はいよいよ、王宮にて王太子とシンデレラの結婚式が華やかに挙行される日である。外国の王室、国内の貴族、聖職者や有力市民など多数の招待客が集まり、王宮に向かう目抜き通りには馬車が渋滞を成した。

王宮に向かう馬車の1台に、シンデレラの継母と2人の義姉が乗っていた。5日前に招待状が届き、今朝王宮から馬車が差し向けられたのだ。その表情は3者3様である。上の義姉は、足の指を切るまでして何ら得ることなく、結局無駄な歩行障害を一生背負う羽目になった10日前の事件から、いまだに立ち直っておらず、意気消沈の極にあった。下の義姉はこの5日間、自分の怪我のことも忘れ、義妹に合わせる顔がないと悩み続けている。継母一人だけが上機嫌だった。彼女の心には、結婚式に招待されたことで再び野望が頭をもたげてきており、その両眼には妄執にも似た色が揺らめいていた。

いつの間にか、馬車が大通りから逸れて裏通りに入ったことに、すっかり自分の世界に埋没してしまっている3人は気づかない。しかし狭い道で突然停車した時には、さすがに3人とも不審に思い、窓から外を覗いた。王宮へ向かうはずの馬車が、なぜこのような寂しい裏通りを通る必要があるのだろうか。

突然、先ほどまで御者を務めていた、黒いマントを羽織った男が、乱暴に馬車の扉を開けて侵入してきた。3人は驚きのあまり、声も出ない。その眼に宿る、落胆とも諦観ともとれるような、妙に暗い色が印象的だった。

「悪いな、恨むなよ。」

低い呟きとともに、継母の目の前に(きり)のような物が現われ、次の瞬間それは彼女の右目めがけて振り下ろされた。

飛び散る鮮血、交錯する悲鳴。馬車の中は阿鼻叫喚の様相を呈した。上の義姉は悲鳴を上げながら、反対側の扉を開けて外に転がり出たが、足の怪我のため走ることができず、結局男に追いつかれて、両眼を潰された。6つの眼球を潰した男は去り、3人は視界を永遠に失った姿で、裏通りに取り残されてしまった。

 

 

ギルドの会合は、相変わらず退屈なものだった。組織が大きくなるにつれて形骸化が進み、形式ばった議事進行ばかりに気を使って、肝心の話が全く進展しない。結局、いつものように終了予定日まで無駄に日数を費やしただけで、実りのない決定事項のいくつかを決めただけで、散会となった。シンデレラの父は、会合に参加した分、仕事のための時間を浪費してしまったと考え、寄り道もせずに自分の家のある町に戻ってきた。

家への近道に入ると、そこには血の臭いがたちこめており、彼は思わず鼻を押さえた。そこには馬車が止まっており、よく見ると彼の妻が扉にしがみついていた。妻は両眼から血を流している。

「おい、お前、いったいどうしたんだ!?」

シンデレラの継母は、夫の声のする方に向き直り、飼い主に駆け寄る犬さながらに、喘ぎながら両手を差し出してきた。シンデレラの父は妻に駆け寄り、抱き締めた。ふと馬車の中を覗くと、下の義娘が、やはり両眼から血を流して呻いている。もう一人の義娘は、開いた扉の外にいるようで姿は見えないが、やはり呻き声が聞こえた。

「これはいったい、どうしたことだ。何があったんだ!?」

訊いても継母は答えることができず、言葉にならない喘ぎを発するだけである。まだ動転が激しく、頭が働いていないようだ。

「お義父さん・・・?」

車内で呻いていた下の義姉が、掠れた声を出した。シンデレラの父は義娘に駆け寄った。

「おお、どうした。いったい何があったのだ?」

「ごめんなさい。私たちが悪いの・・・。あの子を責めないであげて・・・。あの子は・・・。」

それきり、気を失ってしまったのか、それ以上は言葉を発しなかった。父親はまったくわけもわからず、3人を馬車に押し込んで、自ら御者をして家へと向かった。

家に着くと、何故かシンデレラは留守だった。

「こんな時に、あの娘は何をしているんだ、まったく・・・。」

ぶつぶつ言いながらドアを開けると、挟んであった手紙がするりと落ちた。見ると、上質の羊皮紙に厳重な封泥が施してある。拾い上げて、恐る恐る開いてみると、王宮からの召喚状だった。1人で王宮まで参上するようにと書いてある。

嫌な予感を感じながらも、シンデレラの父は3人を家に残し、王宮へと急いだ。

 

 

王宮に到着すると、奥の一室に通された。驚いたことに、そこにいたのは豪華なドレスに身を包んだシンデレラだった。唖然とする父に、彼女は語りだした。

「お父様、お帰りをお待ちしておりましたわ。お留守の間に王宮で舞踏会がありまして、私はそこで王太子殿下に見初められました。殿下は恐れ多くも私に求婚され、私は今日、王太子妃になります。」

実の娘が王太子妃になる。まさに青天の霹靂である。父が冷静さを取り戻す前に、シンデレラは畳み掛ける。

「この結婚によって、私は王室に名を連ねることになります。お父様には、王太子妃の実家ということで、いくらかの年金が支給されることになると思います。しかし、それ以上の関わりは、絶って頂きたいのです。身分の低い者が頻繁に王宮に出入りして、王室の方々にご迷惑をおかけしてもいけませんし。」

この2人は、お互い唯一血の繋がった肉親だったが、この時、娘が父親にかけた言葉は、冷淡といってよいほど情の通わないセリフだった。

「メアリー、関わるなとは、家族に対して、あまりにも情けない言葉じゃないか。お前は知らないだろうが、お前の義母と義姉たちは・・・。」

父の言葉を(さえぎ)るように、娘は香木の扇で口元を隠しつつ、笑い声を上げた。冷たい笑声、決して笑っていない目元。父親は娘の様子に、ぞくりとした。

「この機会に甘い汁を吸おうなどとは、思われないことです。王室の力をもってすれば、人知れず裏通りに連れ出して、密かに両眼を潰すくらいのことは、わけもないのですから。」

娘のこの発言は、父を慄然(りつぜん)とさせた。継母と義姉たちの眼を潰して裏通りに置き去りにしたことを暗に告白し、それを示すことで、父をも脅迫しようとしているのだ。

ここにおいて、父娘は精神的に完全に決裂することになった。義理とはいえ、6年間も一緒に暮らしてきた母や姉たちに対する仕打ちとしては、あまりにも残虐と言うほかない。長い間の継母と義姉たちによるいじめ、更にはそれを黙認し続けた実父への、陰湿な復讐劇なのかも知れないが、少なくとも下の義姉は、シンデレラの境遇を憐れみ、かばおうとしてきたのではなかったか。そんな義姉に対しても容赦しない娘の執拗さに、父の娘に対する愛情の貧弱な泉も枯れ果てようとしていた。

それに、父親の帰宅日・帰宅順路を想定して、眼を潰した継母たちを置き去りにするなど、綿密かつ計画的な凶行にも、言葉が出ない。

「わかった。今後お前や王室に関わらないし、仕事の都合や呼び出しを受けた場合を除いて王宮に出入りすることもない。ただ、妻や義娘たちに危害を加えたりは・・・。」

「ええ、それで結構ですわ。私としても、お父様やお父様のご家族と、これ以上関わりを持つつもりもございません。」

結局、父は娘の脅迫に屈した形になった。元々、靴職人という職業に誇りを持ち、政治的な野心など持ち合わせない男であり、娘が王室の一員になったからといって、王宮に関わろうなどとは、彼自身思いもしなかった。シンデレラもそれはわかっていたので、復讐の一環と、ちょっと釘を刺した程度のつもりだった。

 

 

父親が退出すると、物陰からバートが姿を現した。

「よく『女は怖い』って言うけど、真実だな。舞踏会に行けるってだけで、感動の涙を流した娘と同一人物とも思えん。」

そう言うと、バートは錐と、血のついた布を、テーブルの上に置いて、部屋から出て行った。

シンデレラは椅子から立ち上がると、窓辺へ歩み寄った。冬を目前にした庭の木々は既に葉を落とし、吹き渡る風を視覚的に捉えることはできない。落ち葉もきれいに掃き清められ、なんだか木の根元までもが寒そうに見える。

ドアをノックする音が聞こえ、リロイが入ってきた。

「そろそろ、パーティーが始まるよ。」

「・・・すぐに行くわ。」

リロイの目には、テーブル上の錐と血染めの布が映っていたが、それについては何も言わなかった。

すぐに行くと言ったものの、彼女は窓辺から離れがたそうな様子だった。シンデレラは窓の外を見ているため、リロイからは彼女の表情は見えなかった。リロイは新妻に歩み寄り、彼女の見ているものを見ようとした。窓の近くの枯れ枝に、1枚だけ枯葉が残っており、晩秋の寒風に懸命に耐えている。

「リロイ、バートを始末してくれない?」

彼女の肩を抱こうとした手が、寸前で急停止した。2人の間に、不気味な沈黙が下りる。ややあって、リロイは何も言わずに出て行った。

 

 

室内には、再びシンデレラ1人となっていた。いや、彼女はもうシンデレラではない。王太子妃・メアリーである。彼女を「シンデレラ」と呼ぶ者は1人もいない。その名は捨てたのだ。暖炉の灰にまみれた生活とともに。

いつの間にか、窓外には雪が舞っていた。枯れ枝に1枚だけ残っていた枯葉は、もう見えなかった。風で飛ばされてしまったのか、それとも雪に(うず)もれてしまったのか・・・。

ノックの音に続いて、メイドの声が聞こえてきた。

「パーティーが始まります。」

シンデレラ、いや、メアリー王太子妃は、決然と振り返った。その顔には、既に彼女のトレードマークたる、柔らかな微笑みが(たた)えられていた。

 

 


 

エピローグ

 

王太子夫妻は、妃の実母の名を冠した「リリー・オーキッド記念孤児院」を設立し、国内の多くの孤児を受け入れ、養育するようになった。国民は王太子夫妻をこぞって賛美した。

何年か後、王室に反感を持つとされる地下活動家や、前王太子派だった貴族などが、相次いで不可解な死に方をした。いずれの事件も、数日前から被害者の周囲で身元不明の子供が複数目撃されたらしい。警察による捜査は、何故かほとんど進展していない。

 

 

王太子はやがて即位した。国内には、王の強い指導力によって、平和と繁栄がもたらされた。そのかげには、賢い王妃の支えがあったといわれている。

 

 

 

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