キャラについてのつれづれ(正史ベース)

 

 


☆李典(?〜? 享年36歳)

 武将のくせに、元々学問好きで軍事を好まなかったと正史に書かれている、ひねくれ者? ある意味シンパシーを感じる(笑)。夏侯惇の暴走を諫める場面には、その辺がよく現れてますね。
 一方で、乗氏県で数千家の食客を抱える大豪族の甥というお坊ちゃまだった(その意味では龐統と一緒)という経歴も面白いですね。

 

☆劉永(?〜?)

 劉備の次男。演義では弟の劉理とともに、呉夫人(穆皇后)の子ということになってるけど、正史を見ると「劉禅とも劉理とも母は違う」とのこと。
 兄の皇帝・劉禅が宦官の黄皓を信任するようになると、黄皓と仲の悪かった劉永はたびたび劉禅を諫め、兄弟仲まで険悪化してしまった。
 蜀の滅亡とともに、劉禅と一緒に洛陽に移る(劉理は既に死亡)。洛陽へ行ってからも、仲が悪かったのだろうか・・・?

 

☆曹丕(187〜226)

 一般に、冷酷な政治家というイメージが強いようだけど、彼の詩を読む限り、繊細で傷つきやすいアーティストとしか思えない。骨太な曹操とも奔放な曹植とも違うね。
 芸術家皇帝で母の強い影響下にあった(だたし曹丕の母は賢夫人(笑))という意味では、ローマ帝国のネロと似ている。ということは、やっぱり本当は皇帝になんかなりたくなかったんだろうなあ。竹林の七賢のような生き方に憧れてたようなふしもあるし・・・。

 

☆劉備(161〜223)

 小説『三国志演義』においては「慈悲深い人徳者」として描かれる人物ですが、実は同じ『三国志演義』の中でもしばしば「信用ならない梟雄」、つまり裏切りの常習犯という正反対の評価を下されています。
 このことは、最近(?)よく指摘される「劉備軍団の任侠的性格」にヒントがあると思われます。つまり、彼らにとって「仲間内」とは「家族」も同然であり、劉備にとってはいつも行動をともにしてきた仲間たちおよび領民は、何をおいても守るべき存在だったのでしょう。逆に、「仲間」を守るためならば手段を選ばなかったために、「梟雄」呼ばわりもされてしまったのかも知れませんね。そのためか、曹操や孫権がしばしば味方の裏切りや反乱に警戒していた中、劉備軍団の内部からは裏切り者は出ていません。領土拡張によって軍団も大きくなり、諸葛亮による組織整備がなされて、劉備の目が行き届かなくなってから、初めて麋芳らの裏切りが発生したのは、皮肉な結果だったかも知れません。
 ところで、いつも誰かに寄生しては裏切るイメージのある劉備ですが、実はもう一人の常習犯・呂布と出会う前までは特にそんなことはありません。よく比較される2人ですが、生き残るための「裏切り」という手法を、劉備は呂布から学んだのでしょうか。呂布の最期の言葉「こいつ(劉備)が最も信用できない!」は、呂布門下の卒業証書だったのかも知れませんね。


☆曹操(155〜220)

 何か書こうと思ってたけど、気が変わった(笑)。小説の方に書いていくつもりなので、そちらを読んで下さい。

 


☆呂布(?〜198)

 

 

 


☆潘璋(177〜234)

 

 


☆陶謙(132〜194)

 

 

 

三国志

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