建安24年
〜関羽最期の1年に迫る@〜
初出:総合三国志同盟 第9回オフ会(平成20年12月6日)
建安24年(西暦219年)の樊城攻略戦は、劉備軍が誇る武神・関羽最期の戦いであるとともに、すぐ後に続く三国時代における各国のとるべき方向性に決定的な影響を与えることとなった、重要な事件です。樊城攻撃に始まる一連の戦およびその周辺における動きについて、『蜀書』「関羽伝」を中心に、関係者の伝の記述も交えてやや詳細に検討してみようと思います。
建安24(219)年、関羽が樊城を包囲すると、曹操はその勢いを恐れて許にいる帝を鄴に遷そうか迷った、といわれています。しかし、天下に号令して大軍を動員できる曹操ともあろう人が、彼より遥かに弱小な劉備軍の一方面司令官にすぎない関羽を、なぜそれほど恐れたのでしょうか。
単純に支配地域でいっても、曹操は、冀州・兗州・青州・并州・豫州・徐州・司隷・涼州・幽州の東部・楊州の北部・荊州の北部です。完全支配が8州、部分支配3州ですが、部分支配の3州も人口の多い地域ですから、実質10州分くらいあると思います。それに対し、劉備の支配地域は、完全支配は益州1州のみ、それと荊州の南西部を領有しているに過ぎません(人口の多い北部は曹操に押さえられ、南東部は4年前に孫権に割譲(または返還)しています)。関羽はその内の荊州南東部を支配していたので、1/4州の主ということになります。
曹操と関羽の間にはこれほどまでの実力差があったにもかかわらず、曹操が関羽の蠢動を恐れた理由はなんでしょうか。
まず、この年における、関連する出来事を時系列で並べてみましょう。
1月 夏侯淵、漢中で戦死。
3月 曹操自ら漢中へ遠征。
5月 曹操、長安へ退却。
? 関羽、曹仁を攻める。
7月 于禁、曹仁の救援に赴く。
(秋)
劉備、漢中王に即位し、関羽を前将軍・仮節鉞とする。
8月 長雨で漢水が氾濫し、于禁の援軍が水没。
関羽、樊城を包囲する。
曹操、徐晃を救援に派遣する。
10月 曹操、洛陽に帰還する。
孫権が曹操宛に、関羽を討つ意思を伝える。
徐晃、関羽を撃破する。
曹操、摩陂に駐屯する。
閏10月 呂蒙が南郡(江陵・公安)を占拠。
陸遜が宜都郡(夷陵・秭帰等)を平定する。
12月 関羽、章郷(または臨沮)で捕らえられ、斬られる。
実は、この中に先の疑問へのヒントが隠されています。
援軍が水没し、大将の于禁が捕虜となった時点で、主要な関係者たちがどこにいたのか、見ていきましょう。
まず、曹仁は樊城に立て籠もっています。関羽はその樊城と襄陽を包囲しています。先ほども触れた通り、許には献帝がいます。そして曹操がいるのは、そこから遠く離れた長安です。
地図を見てみれば一目瞭然ですが、仮に関羽が樊城をあっさりと落とし、宛城をも抜いてしまったら、献帝のいる許まではわりと近く、長安にいる曹操がいくら急いで駆けつけたとしても献帝を守ることは不可能です。これでは、さしもの曹操も「帝を鄴へ退避させよう」と考えたとしても無理もないことだったといえるでしょう。
それにもかかわらず、曹操が長安を出て洛陽に帰還したのはその2ヵ月後の10月でした。曹操はどうしてすぐに駆けつけず、長安を動かなかったのでしょうか。
長安と聞いてすぐに思い出すのは、かつて対馬超戦における最前線だったことでしょう。当時の涼州の諸勢力を束ねて中原に進出してきた馬超軍に対する押さえとして、長安は重要な軍事拠点でした。
だとしたら、今回も涼州で何か不穏な事態が起こっていたのでしょうか。
涼州のことは張既に聞け!ということで、『魏書』「張既伝」を見てみましょう。ちくま学芸文庫の正史をお持ちの方は、第3巻の117ページをご覧下さい。そこには、曹操の漢中からの撤退によって、劉備が武都郡の氐族を味方につけて関中に圧力をかけることが心配されていたことが記されています。更に121ページを見ると、武威郡の顔俊、張掖郡の和鸞、酒泉郡の黄華、西平郡の麹演らが反乱を起こしたことも記載されています。関中〜涼州は、不穏どころか騒然たる情勢になっていたわけです。
この時期にこれだけの反乱が相次いだ理由は、いうまでもなく曹操の「敗戦」です。曹操は自ら大軍を率いて漢中に進出しながら、弱小勢力の劉備を打ち破ることができず、剰え自領だった漢中を失って撤退を余儀なくされたわけで、このことは周辺地域に「曹操の軍事支配力の低下」と受け取られたことでしょう(もちろん劉備サイドもそれを大いに喧伝したはずですが)。
その劉備は、この時点でまだ漢中に留まっていました。劉備は秋(多分7月頃)に漢中王に即位していますが、即位式を執り行った場所は成都ではなく定軍山の麓の沔陽です。劉備は、すぐ目と鼻の先から長安を窺う姿勢を示していました。
仮にこの時点で曹操が長安を離れたとしたら、どうなっていたでしょうか。その場合には、長安から西はあっという間に悉く劉備の手中に落ちたと考えられます。
「張既伝」にもあるように、氐族は劉備と繋がっていた可能性が考えられます(少なくとも曹操はそう疑っていました)。涼州で反乱を起こした連中も、個別に劉備と水面下で連絡を取り合っていたかも知れません。なにしろ涼州におけるカリスマであった馬超はいまや蜀の重鎮ですから。また、劉備が彼らを煽ったことも大いに考えられます。
要するに、曹操はこの時期、長安を離れたくても離れられなかったのです。
関羽の北進は「功名心に逸った関羽の暴走」的に論じられることがままありますが、どうもそうではなかったのではないかと思えてなりません。それどころか、曹操を西方に足止めしておいて背後の本拠地を衝くという、緊密な連係プレーだったといえます。またこれは、前年からの漢中侵攻作戦に端を発する、壮大な戦略の一環だったことも、これによって浮き彫りにされたのではないでしょうか。
それでは、そのような蜀の戦略に対して、曹操はどのような戦略で対抗しようとしたのでしょうか。それは・・・。
この続きは、次回「『幻となった<曹操最後の戦い>〜実現しなかった<関羽殲滅大作戦>』をお楽しみに♪