求賢令についての一考察

〜曹操は本当に重症の人材フリークだったのか?〜
〜権力者と知識人の知られざる暗闘!?〜

初出:総合三国志同盟 第6回オフ会(平成20年3月8日)


 

 求賢令(または求才令)は、建安15(210)年春をはじめとする3件の布告を指し、その「才能への強烈なラブコール」ともいえる内容から、一般的には曹操の人材収集欲(あるいは人材収集癖)を示すものと考えられています。
しかし、この求賢令に対する理解はそのような単純なもので本当によいのか、というのが今回のテーマです。この稿では、曹操が求賢令を出すに至った経緯について、少々違った角度から考察を加えてみたいと思います。


まず問題となるのが、求賢令を出すタイミングです。曹操の出した求賢令は前後3回にわたっていますが、これらと前後の事象をまとめたのが「表1」です。

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上の年表によってわかるように、求賢令の前後には曹操の権威獲得のポイントとなる事件や、大物知識人(≒士大夫)の「曹操による」死の記事が入っており、これらの事件は各回の求賢令と交互に登場しています。この符号はいったい何を意味するのでしょうか。


次に考えるべきは、求賢令の内容です。例として、第一回の求賢令で述べられている内容を箇条書きに記してみます。

@天下に安定をもたらすためには、賢者を見出し、彼らを起用することの必要性を説く。
A管仲、太公望、陳平を例に、人格的な美徳のみにとらわれて、あたら有能な人物を見逃してしまうことの愚を戒める。
B上記Aに関連し、廉潔でなくとも、身分低く貧しくても、嫂(あによめ)と密通し賄賂を受け取るような人物であっても、才能さえあれば自分(曹操)は起用するので、推薦するよう求める。

上記@はともかく、ABはかなり過激な論であり、儒学全盛の後漢時代に仮にも漢丞相の名で全国にこのような布告を出すというのは、斬新を超えて異様にすら見えます。このような内容に、儒学的徳目を重視する士大夫層は反発しなかったのでしょうか。

 

これらの疑問点について、表1に登場する人物の分析を中心に考察していきましょう。
まずは荀ケです。荀ケが曹操に仕えるようになったのは初平2(191)年、当時冀州牧となり、河北に勢力を伸ばしつつあった袁紹の元を離れての移籍でした。ただし、この頃の袁紹は曹操を自分の手下とみなしており、平和的な、現代でいえば「関連会社への出向」のようなものだったと考えられます。荀ケがあえて袁紹(本社)から曹操(子会社)へ移った理由については「袁紹が天下を狙う器ではないため失望した」とされていますが、実際にどうだったかについてはここでは深入りしません。まあ、後になればなんとでも言えるものです(笑)。
袁紹の陣営ではほとんど何の動きも見せなかった荀ケでしたが、曹操陣営に参加するや次々に有能な人材を推薦し、たちまち曹操陣営には多士済々の人材が集うことになります。程呈、鍾繇、郭嘉、華歆、王朗、趙儼、司馬懿など、曹操政権の中枢は荀ケが推薦した人たちによって占められていきました。
彼らはみな優れた能力の持ち主であったことはいうまでもありまんが、同時に士大夫階級における人望を持った人たちでした(郭嘉はちょっと違うかも・・・?(笑))。士大夫階級は、一方では豪族でもあり、また同時に各地域を代表する名士でもありました。地域の名士というのは、現代でも地方ではそうですが、その地域の末端に至る人望と影響力を有しており、彼らの協力なしには何事もなしえず、逆に彼らの協力さえあれば何でも出来るという存在なのです。彼らを陣営内に取り込むことで、曹操は強力な支持基盤を得ることとなり、政治支配力を各地域の隅々にまで浸透させることができるようになりました。
一方で、彼ら知識人たちは常に「国家・社会の役に立つ」ことを自らの存在意義と考えており、活躍の場を求めていました。また、彼らにとっては、長年の戦乱で荒廃した地域社会の建て直しが急務であり、強力な軍による保護と社会政策の実行力を持ったリーダーを欲していました。それに相応しいリーダーとして荀ケが選んだのが曹操であり、彼は曹操の軍事力・実行力を最大限に生かすとともに、彼の元で自ら地域社会の建て直しに取り組むことを望みました。
つまり、荀ケを介して結びついた曹操と知識人たちは、互いの必要とすることを互いに補完しあう、相互受益・相互利用の関係だったということができるでしょう(図1参照)。

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このような両者の関係に狂いが生じてくるきっかけは、建安13(208)年の孔融の処刑だと考えられます。
孔融は、儒学の祖・孔子二十世の子孫であり、後漢時代に隆盛を極めた儒家たちのシンボル的存在となっていました(ただし、孔融自身はその言動からむしろ老荘的な価値観の持ち主であったようにも思われますが)。董卓によって北海国の相となり、劉備の推薦で青州刺史となりましたが、間もなく召還されて朝廷の要職についたとされますが、実態は袁紹の長子・袁譚に追い出されたようです。いずれにせよ、当時朝廷を主導する立場についたばかりの曹操にとっては、人望篤い孔融の参画は喜ばしいことだったはずです。
ところが、建安13(208)年8月、曹操は突然孔融を処刑してしまいます。孫権からの使者の前で曹操を誹謗する発言があったというのがその理由ですが、孔融ほどの大物を問答無用で処刑するほどの理由とは思えず、真相はよくわかりません。しかし、ことは単に一人の知識人の処刑に留まる問題ではありません。一方は朝廷を牛耳る最高権力者であり、他方は全国に根を張る知識人階級の象徴的存在です。この事件は曹操、というより「曹操政権」と知識人階級との関係性、なかんずく、曹操政権に対する知識人階級の信頼に影響を及ぼさずにいられなかったのではないでしょうか。


この年、他に二つの気になる記事があります。一つは6月に曹操が丞相に就任していること。そしてもう一つは7月の荊州への劉表討伐のための遠征に際して曹操による諮問に答えた荀ケの進言の記事以降、それまで活躍を続けてきた荀ケに関する記事が『三国志』からも『後漢書』からもぷっつりと途絶えてしまったことです。後者については特に、曹操の丞相就任と孔融の処刑を「これまでの知識人階級との対等な『協力』関係ではなく、曹操の権威・権力による知識人階級への一方的な支配・統制」と解釈しての反発行動であるとも取ることができます。実際に荀ケが何を意図していたかについてはここでは深入りしませんが、彼とつながりのある知識人たちがそのように解釈したとしても、不思議はありません。4年後の荀ケの死について、正史本文にまで「憂いをもって薨ず」と意味深な記述がなされており、知識人たちの間に「二人の関係が怪しい」「破局近し?」といった憶測が流れていたことも充分に考えられるためです。
荀ケによって推薦され、数々の策を献じた程呈の活躍も、次第に見られなくなってきます。これ以後の彼に関する記事は、曹操が彼のために宴会を開いたとか、突然の引退宣言とか、受動的あるいは後ろ向きな記事になります。彼らはここにおいて曹操と距離を置き始めたと考えられます。
このことは、単に曹操陣営における人材活用の問題に留まりません。下手をすれば、社会の末端に及ぶ支配体制が揺らぐことにもなりかねません。


このようなタイミングで、儒家的な美徳を軽視するがごとき内容を持つ「求賢令」を出しているという事実を、どのように捉えるべきなのでしょうか。曹操と距離を置き始めた知識人層、そして彼らの価値観に反するような人材への求人。これには「荀ケが推薦した人材とは別系統の人材への呼びかけ」、もっと言えば「荀ケの息のかかっていない人材(階層)への支持基盤の拡大」を狙った政策という側面が見えてきます。

第二回、第三回の求賢令に至る流れも、ほぼ同様に考えることができます。
曹操は建安18(213)年に魏公になっています。これは自らの権威を高めることで知識人階級への力による支配を強めようとしているようにも見えます。荀ケの死の翌年というタイミングもあり、知識人たちはこれに反発を強めたので、曹操は再び求賢令を出したという流れです。
ただし、既に荀ケ・孔融という二枚看板を失った知識人階級もさすがに一枚岩ではなくなってきたのか、あくまで抵抗する程呈を尻目に引き続き活躍する鍾繇や、この頃から頭角を現してくる司馬懿や陳羣などの例も見られてきます。求賢令によって、彼らは自分の活躍の場を能力「のみ」の輩に取られるという危機感を抱き、また若い世代はむしろこの事態を世代交代のチャンスと捉えたとも考えられます。
ここにきて、求賢令は新たな意味を併せ持つようになります。知識人階級を動揺させ、離反しつつある彼らを再び自らに手の内に取り込むツールとしての一面を現してきました。


建安21(216)年、曹操は魏王になり、その直後に崔琰を逮捕し、自殺を命じました。
崔琰は、丞相府で東曹掾・西曹属(いずれも人材採用担当)を歴任して、人を見る目が優れていると評判の人物でした。彼の投獄・賜死は多分に言いがかりに近い印象があります。この処置に不満を抱いた毛玠が免職になっていることからも、それは察せられます(このとき毛玠の尋問に当たったのが鍾繇であったという事実は象徴的とも皮肉ともいえます)。また、裴松之の注にも「太祖(曹操)は、彼が内心非難の心を抱いていると思った」とあり、おそらくは魏王就任について曹操と崔琰の間に対立があったことを示唆しています。
このときの崔琰・毛玠の処分と翌年の求賢令で、知識人階級は止めを刺されることになります。彼らは揺さぶられ、分裂し、ついには曹操の権力機構に吸収されてしまったものと思われます。
そして、ここで「抵抗派」として政権中枢から外れた知識人たちが、「隠逸の士」として後の三国時代後期〜晋代にかけて大きな声望を得ることになる・・・と考えるのは飛躍しすぎでしょうか。


以上をまとめたものが、図2になります。

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