裏☆董卓伝

 

 

 

「おーい、陽鬢!」

彼方から名を呼びつつ馬を走らせてくる若者の姿は、陽鬢の目にはっきりと捉えられていた。元々このあたりを中心に遊牧生活を営む羌族の中で育ったため、視力はかなり良い。

「おう、桟堵じゃないか。久しぶりだな!」

桟堵という若者は、陽鬢に駆け寄ると破顔一笑した。二人は同年で、幼い頃からともに武芸や馬術を競った幼馴染である。

「お、なんだか随分と立派な格好じゃないか。すっかり董家の若様って感じだな。」

「だが、この服では馬に乗りづらくてな。兄貴ほどにはうるさいことを言われずに済んでるから、まだましだが。」

そう文句を言いつつ、まんざらでもない様子の陽鬢は、やや紅潮した顔を桟堵に向けた。

「だがな桟堵、俺はもう陽鬢じゃないぞ。もう加冠(元服)も済ませ、(あざな)もつけた。これから、俺は仲頴だ。」

「仲頴か。なんか格好いいな・・・。」

「へへ、そうだろ。」

まんざらでもなさそうな様子で照れ笑いをする。袍を着、冠をつけても、笑うとやはり十代の少年だった。

「ここに来たということは、またここで一緒に暮らせるんだろ?」

「ああ、仕官は兄貴がするから、俺は好きにしていいとさ。」

桟堵が顔を輝かせた。

「これから長に挨拶に行くんだろ。その前に、久しぶりに騎射の腕を見せてくれよ。」

「よし、ちょっと体がなまってたからな。久しぶりに本気で射てみるか!」

董卓、字は仲頴。隴西郡臨洮の人である。漢族出身だが、このあたりには羌族も多く、羌族の血が混じっている者も少なくない。董卓もそのような人物の一人だった可能性は充分にある。

董卓の父・董君雅は穎川郡輪氏県の尉(治安担当)を勤めたことがあり、董卓はそこで生まれたといわれている。しかし間もなく董君雅は隴西に戻り、董卓は涼州で育った。やがて董卓は羌族の集落に出入りするようになった。武術に優れた董卓は勇猛で知られた羌族の中でも頭角を現すようになった。

桟堵は三丈ほどの間隔を空けて、五つずつ二列に的を立てた。

「陽鬢、準備ができたぞ。」

「仲頴と呼べ。行くぞ!」

董卓は馬を走らせ、弓を構えた。一般に遊牧民の使う弓は馬上で扱うため、普通は歩弓兵が使う漢族の長弓よりも小さく、しかも威力は長弓よりも強い。漢族が長年騎馬遊牧民の侵入に苦しめられてきた所以である。

董卓は二列の的の間を走り抜けながら、まず左側手前の的を射倒すと、素早く弓を右手に持ち替えて、左手で右側の的を射た。

これが、董卓が誇る騎射の技であった。普通馬上で弓を射る場合、正面か左側の標的を射ることしかできない。そこで馬上での騎射戦では、なんとか相手が自分の左側に位置するようにもっていく馬術が最も重要とされる。一番有利な体勢は、相手と同方向に並走しながら、自分が右側に位置する形である。こうなると相手はこちらを攻撃する手段を奪われ、ひたすら逃げるしかなくなる。ところが、左右どちらからでも矢を射ることができる董卓は、たとえ「不利」な体勢になっても平気で射返してくることができるのである。

董卓が二列の的の間を駆け抜けた時、桟堵が立てた十の的が地に倒れていた。桟堵と董卓が互いの顔を見て笑い交わした。

「相変わらず見事な腕だな、陽鬢。」

声がした方へ振り向くと、桟堵の従兄の英橿が馬に乗って近づいて来ていた。英橿は董卓の武術の師であり、兄事してもいる憧れの存在だった。

「義兄上・・・。」

「英橿兄、もう陽鬢じゃないぜ。仲頴っていう字をつけたんだとさ。」

「そうか、お前ももう一人前になったんだな、仲頴。」

「いやあ、義兄上に比べたら、まだまだ・・・。」

尊敬する義兄の前では、さしもの董卓もいたって謙虚になるのだった。

チベット系遊牧民族の羌族はいくつかの部に分かれている。後に羌族のタングート部が強勢になり、西夏王朝を立て、西夏文字を作って歴史にその名を残すことになったが、この頃はまだ漢族やチベット族に圧迫されて移住を繰り返す弱小民族だった。

ここの部族の長はまだ三十代の壮年で、見るからに頼もしげな男だった。長は董卓を見ると目を細めた。

「陽鬢も加冠したか。字はなんと申す?」

「仲頴といいます。」

「そうか、兄上がいたのだったな。それで、またここに留まれるのかな?」

「はい。家の方は兄がいますから、私はまだ好き勝手ができそうです。」

長は穏やかに微笑んだ。

「そうか。お主が我々の集落にいてくれるのは嬉しい。我々爾瑪も元々は遊牧民族なのだが、漢の領域内に定住して農耕を業とする者も増えている。漢族出身でも、お主のような者が仲間に加わってくれるのは、大変にありがたいことなのだ。」

羌という呼び名は漢族の側がつけた蔑称であり、当の羌族の人間はもちろん誰も自分たちを羌とは呼ばない。「爾瑪」は、彼らが自分自身を呼ぶ呼称である。

「董仲頴、お主は今日から我ら爾瑪の一員だ。」

長の言葉に、董卓は嬉しそうな表情を見せた。


 

数年が経ち、羌族の集落に祝祭ムードが溢れていた。今日は結婚式が行われるのだ。花婿は董卓、花嫁はこの集落でも指折りの美人で有名な婌婁である。花婿、花嫁ともに華やかな民族衣装に身を包み、幸せそうな笑顔を振りまいている。

「旦那様、何を考えておられるのですか?」

そんな中で、さすがに婌婁は董卓の様子の変化に気づいた。董卓はちょっと驚いたような表情を見せたが、口に出しては何も言わなかった。

董卓は、婌婁を実家の父に紹介することを考えていた。別に反対されるとは思っていないが、やはりこういう時には緊張するものだった。

董卓が新妻を連れて隴西へ出発しようというまさにその時、父の元から使いが来た。

「至急戻れといわれるのか。」

「左様です。お父上がお待ちです。」

「まあ、ちょうどこちらから訪ねていこうと思って、これから出発するところだが、一体何の用事なのかな?」

「私はこれから長にお話があるので、これにて。」

使いの者は用件を告げるとそそくさと立ち去った。董卓と婌婁は顔を見合わせる。

「どういうことだ?」

「でも、ちょうどいいではありませんか。少なくとも会って下さるおつもりなのでしょうから。」

「それもそうか・・・。」

父に会うのは久しぶりだった。昨年、弟・董旻の加冠の時以来である。父の董君雅は荒々しい男だが、様々な民族が入り乱れるこの地域を束ねる豪族らしく、柔軟な思考をも備えていた。羌族の女との結婚だからと目くじらを立てるようなこともあるまい、まして自分は次男なのだからと、董卓はたかをくくっていた。

室に入ってくると、董君雅は拝礼する息子に開口一番言った。

「擢が死んだぞ。」

「え!?」

董卓は思わず顔を上げた。董擢は字を孟高といい、董卓の長兄である。特に病弱だったわけではない。

「どうして兄上が・・・。病だったとは聞いておりませんぞ。」

「流行り病でな。ほとんど数日のうちに死んでしまったので、知らせることもできなかった。」

董卓は呆然とした。兄には一人息子の董璜がいるが、まだ幼少ですぐに家を継ぐことはできない。ということは・・・

「卓、お前が我が董家の後継だ。今後はこの家にいて家業を学び、また学問を身につけて仕官を目指すのだ。」

董卓は、全身の血が急速に冷却するのを感じた。まさかこの旅が羌族の集落との別れになるとは思ってもみなかった。

「父上、実はこのたび結婚し、羌族の女を妻としました。今回はそのお許しを得るために参上したのですが・・・」

董君雅は一瞬ぎろりと息子を睨みつけた。猛々しい武人の本質を垣間見たような気がして、董卓はややびくりとした。

「お前は董家の跡取りなのだから、漢族のしかるべき家と縁組をしなくてはいかん。その女はお前の正妻とするわけにはいかんが、妾とすることは認めよう。羌族の長にもその旨を伝えてある。」

そう言い置くと、董君雅はさっさと室を出て行った。後には董卓一人が取り残された。

「婌婁、すまん・・・」

「いいのですよ。貴方はそうやってお父上に私のことをとりなそうとして下さった。それで充分です。」

「婌婁・・・。」

夜、董卓は寝所で婌婁の手を取り、何度も謝った。婌婁が正妻になれないことは、とても理不尽なことに思えた。そしてその最大の被害者は彼自身ではなく、新妻の方だった。だが、婌婁は穏やかな笑みを浮かべた。

「それに、貴方様はこの董家の当主となられるのです。その正妻なんて、私などには務まりませんわ。」

「そんなことは・・・」

ない、と言おうとして董卓は躊躇した。婌婁自身はしっかりとした女性で、能力的にも充分に「当主の正妻」が務まるであろう。だが漢の国で、豪族の当主の正妻という、表面に出る立場になる限り「羌族の女」というレッテルは彼女にとって一生ついてまわる重荷となる。そんな苦労を彼女に強いるわけにはいかなかった。

「・・・すまん。」

董卓は、もはやそれしか言えなかった。婌婁は、そんな夫を包み込むように抱きしめた。

 

 

 参につづく・・・

 

 

小説『裏☆三国志』

三国志

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